送信完了 Transmission Completed

こちらは、「送信完了」という小説のページです。やや近未来のSFっぽい感じですが、今の時代であってもおかしくありません。

現在はこの小説からイラストを描いています。

This is the page of the novel “Transmission completed”. It’s a bit like science fiction in the near future, but it’s not strange even in this era.

Currently I draw illustrations from this novel.

シンジは仮想現実の空間デザイナーで、テーマパークの設計をしている。

現実世界と仮想現実を行き来しているうちに、シンジはこの世界の仕組みに不思議な感覚を覚え始めた。

統治機構が開発しているという人工知能と仮想現実の情報を得たシンジは、元同僚のクリスに連絡を取り、2人は久々の再会を果たす。

その後にシンジを待ち受けていたものとはー。

Shinji is a virtual reality space designer who designs the theme parks.

While going back and forth between the real world and virtual reality, Shinji began to feel a mysterious feeling about how this world works.

After receiving information on artificial intelligence and virtual reality that the governing organization is developing, Shinji contacts his former colleague Chris and the two meet again after a long time.

What was waiting for Shinji after that?


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各章の初めにある目次はただの画像で、この先頭に戻ります。

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シンジ

 目覚まし時計が鳴っている。朝6時10分、シンジは隣に寝ているミカを見た。彼女はまだ、目を閉じて静かに眠っている。今朝は早くから仕事の打ち合わせがある。目を閉じると、奥の方に鈍い疲れを感じた。この仕事も、そんなに続けられるものじゃないな、シンジはそう思いながらベッドから起き上がり、キッチンへ行ってコーヒーを淹れた。

The alarm clock is ringing. At 6:10 in the morning, Shinji saw Mika sleeping next to him. She is still sleeping quietly with her eyes closed. He has a work meeting early this morning. When he closed his eyes, he felt dull tiredness in the back of eyes. This work can’t be continued so much, Shinji got up from bed thinking so and went to the kitchen to brew coffee.

 着信音が鳴り、出るとワタベの声がした。ネットでの打ち合わせなので気は楽だった。彼は出張で地球の反対側にいて、時差は­ちょうど12時間だった。

「おはよう。そっちはまだ早いね」

「さっき起きたばかりです」

「朝早くから申し訳ない。早速先日の続きだけど、一緒にチェックしてみようか」

 そう言って2人は、ヘッドセットを装着した。そこには2人が設計しているテーマパークが広がっていた。前方に拡がる空間を見ると、シンジはまた目の奥にまた少しの痛みを感じた。シンジは30代の半ばだった。ミカはシンジより3つ年下で、一緒に暮らして5年になる。

 テーマパークのプロジェクトは始まったばかりで、今は基本計画の段階だった。アトラクションもあれば、お化け屋敷もあり、カジノもある複合施設だった。人々はヘッドセットを装着して、そこで遊ぶことも出来るし、身体を動かしてスポーツをすることも、カジノでお金を賭けることも出来た。今は基本設計の段階で、ここからそれぞれの施設をデザインして行く予定だった。

「湖の廻りを走る路面電車を作りたいね。ヨーロッパのトラムみたいなのが、湖面に映りながら走って行くんだ。それに乗ってこの敷地を廻ることも出来るし、子供も喜ぶと思うよ」

 それはワタベが前からこだわっている案だった。しかし、先日社長からやんわりと却下されたのだった。

「電車が空中に飛んで行って、ゲームになっているのはどうですかね?」シンジは考えていたアイデアを話した。「空中に基地かお城があって、そこに飛んで行くまでの間にポイントが獲得出来たり、敵がいるゲームにするというのはどうでしょうね?」

 ワタベは眉間に皺を寄せ、タバコに火を点けた。ヘビースモーカーで、何か良いアイデアがないかと探す時には必ずタバコを吸うのだった。

「それで成り立つなら仕方ないか。何でもゲームにしないと成り立たないという考えには反対だけどね。その辺のことは今度社長にも言っておかないとなぁ」

 そう言ってワタベは煙を吐き出しながら、窓の外を見た。夜の7時近くだったがまだ外は明るかった。大きな木と、緑の芝生の庭が見えた。

「ゴルフ場はどんな感じ?」

 シンジはデザインされた3次元のモデルを空間に表示した。ゴルフは今までに数度しかしたことが無かったが、基本計画を任されていた。基本計画が出来た段階で、ゴルフコースの設計の専門家が加わることになっている。それまでは、シンジがいかに素人であろうと、自由に巨大なゴルフコースを設計することが出来た。

 会社が使っている人工知能にはいくつか種類があったが、シンジたちが使っているのは3次元のデザインに特化されているものだった。その性能は飛躍的に向上して、今では誰もが作りたいもののイメージや、言葉、条件などを教えれば、人工知能がリサーチと無数のアウトプットを提案してくれた。ワタベとシンジは、作りたいもののイメージと条件を人工知能に伝え、出て来る無数の選択肢から決定した。細部に至っては仮想現実の中で実際に自分の身体を動かして作業をしながら、その空間を作ることも出来るのだった。

 人工知能が進化して、今やシンジたちがしている仕事は実は誰でも出来てしまうものだった。しかし、誰もが出来るのと、実際に大きなプロジェクトでそのポジションに就くのは違う話だった。ワタベもシンジも、この仕事に就くまでにそれなりの紆余曲折を経て来ていたのだった。

「まあこんなものかな。とりあえず大きさが合っていれば良いや」ワタベもゴルフに関しては素人なので、あまり分かっていない。

「それと、カジノの図面が出来て来たけど、どうしてこんなに見づらい図面を描くんだろう?」

 カジノは他のデザイン会社が担当していた。派手な色が使われていて、大量にコピペされた机と椅子がフロア全体に散らばっていた。この図面を描いた人は、とにかく何も描かれていない空間を埋めることで、図面の完成度が上がると考えているのだろう。

「本人的には見やすくしているつもりじゃないですかね」

「センスがないよね。あいつらデザインのことなんて何も分かっていないんだから、早く我々が主導権を取らないとなぁ。あと、お化け屋敷はね」嬉しそうにワタベは言った。「ものすごく怖くなりそうだよ。子供は泣いちゃうだろうな。トラウマにならなければ良いけど」

 ワタベが空中に表示した3次元のモデルは、巨大な迷路になっていて、そこにお化けが潜んでいるというものだった。

「迷路はもっと難しくした方が良いかも知れないね。迷いながら、お化けに追いかけられるんだ」

 お化け屋敷は大きな古いお屋敷と、広大な庭園にある巨大な迷路から成り立っていた。基本的な設計をワタベとシンジがやり、あとはグラフィックデザインの会社が担当することになっている。

「赤い橋はどうなったかな?」

「こんな感じです」

 シンジはほぼ出来ている3次元のイメージを表示させた。中国風の赤い、小さな木の橋がワタベの要望だった。

「そうそうこんな感じ。この赤い橋が水面に映って、その下をボートで通り抜けるんだよ。なかなか良いでしょう」

 ワタベは、自分の個人的な思い出でこのプロジェクトを作る傾向があった。この赤い橋も、彼が行ったことがあるベトナムかどこかの池の橋だった。

 スポーツ、ギャンブル、ホラー、アトラクション。仮想現実でも、やはりそういうものが結局人を集めるのだった。

「ゴーカートのコースも、次までによろしく」

 そう言ってワタベは打ち合わせを終わらせた。彼の仕事はそろそろ終わりだろう。シンジの1日は始まったばかりだった。シンジはまたキッチンへ行ってコーヒーを淹れた。

 3次元の空間を設計していると、仕事をしていない時もその空間にいるように感じることがあった。テレビのチャンネルを変えるように、自分の脳の中が、さっきまで作業していた空間に切り替わるのだった。ある3次元の空間で過ごしていれば、脳がそれに慣れて、しばらく引きずられるのは自然なことだとシンジは思った。

 仕事と割り切ってしまうべきなのだが、時々自分は何をしているのだろうと思うことがあった。この現実世界の広大な空間の中で、人の視覚や聴覚をジャックして、檻に入れてしまっているように感じることがあった。この現実ですらどうなっているか分からないのに、視覚的にもう1つの現実を作ったり、この現実にフィルターを掛けてしまうことは良いことなのだろうかとシンジは考えた。

「良し悪しは別として、人間はある技術を手にするとそれを使ってみたくなるのよ。歴史上、ずっとそうだったじゃない?」ミカは言った。「本当はそんなものなんか使わない方が良いとは思うけど」

「こういうものを使うと、今度はそれがないと何か物足りないように感じてしまうんだ。昔の人だったら、こんなものがなくてもこの世界と向き合って、それで良かったと思うよ」

「いろんな現実に似せた世界があって、そこで遊ぶのは楽しいからよ。それにいろんな情報が得られるから。それだけのことよ」

 すでにこの世界では、仮想現実の中で人と会って話したり、人工知能と話して良いアイデアを聞くのは普通のことだった。そこで起こったいくつかの問題、例えば人工知能とのコミュニケーション依存や、ゲーム依存、ギャンブル中毒は、ずっと昔から存在しているお馴染みのものだった。

 現実世界の重大な問題と比べれば、それらのことは些細に思えた。地球環境の破壊や汚染は進み、解決するための技術の多くは有効に使われていなかった。

 プロジェクトが始まってから、シンジはこの現実について何か今まで感じたことのない小さなズレのようなものを感じ始めた。仮想現実とは違い、この世界で自分は身体を持ち、痛みを感じ、実感を伴って生きている。しかしそれでも、何か仮想現実の中にいるような感じがすることがあるのだった。実体を持って僕たちはこの世界で生きているけれど、この世界は一体どうなっているのかとシンジは考えていた。

 ある日、シンジとミカは理論物理学の映像を観ていた。男の声で、ナレーションが言った。

「究極的には、この世界は原子で出来ています。その原子もさらに小さくすると、素粒子で出来ています。その素粒子は、振動するヒモまたは膜だというのが現代物理学の理論です」

 この世界が究極的には振動するヒモまたは膜だとして、どうして世界はこのような現実を形作り、そこで僕たちは生きているのだろうか。この世界は、実は思っている以上に複雑で、見えていないものが沢山あるのだろうとシンジは思った。

「その空間は非常に小さいために、私たちは認識することが出来ません。それはこの空間に小さく小さく折り畳まれていて、しかも偏在しているのです。そしてこの現実の世界も、実はシミュレーション、つまり仮想の現実なのだと主張する物理学者もいます」

 僕たちはこの世界で実体を持って生きているが、もしそれが仮想現実だとしたら、それは何のためなのだろう?僕たちがこの世界で経験している全てには、一体意味があるのだろうか?僕たちはこの世界で生き、思考し、様々な感情や痛みを経験する。その全てには、何か意味があるのだろうか?それとも、ただ無意味にこの世界を経験し続けているのだろうか。

「何か意味はあると思うわ」ミカは言った。「ただ無意味に経験しているなんて、バカげているもの」

「こんなことを言うと変かも知れないけど、僕はこの世界で経験する全てが、データのようにどこかへ送られているような気がするんだ。経験というのは何かをすることだけじゃなくて、思ったり、考えたり、感情。そういうもの全てさ。それが脳で変換されて、どこかへ送られているような気がするんだ」

「どこに送られているのかしら?何のために?」

「データとして送られているから、この物体とは違う次元だろうね。何のためにかと思うけど、神様がいるとしたらそうして遊んでいるんじゃないかな。たぶん全ての経験を神様は欲しているんだよ。そして自分が造った世界を隅々まで経験しているんだ」

「もしそれが究極的な姿だとしても、私たちはこの現実の世界で生きなければならないのよ」

 たしかに、全ての経験のデータが送られていたとしても、それはどうしようもないことだった。ただ、シンジは知りたかった。この世界が本当はどのような仕組みになっているのかを。

「もっとグラウンディングした方が良いわ。ちゃんと地に足を付けて、この現実を生きるの。仕事の影響もあるんじゃないかしら。ああいう仕事をずっとしていると、そんな風に感じるのよ」

「そうかも知れないね」

 シンジはミカに同意しながら、この世界が実体を伴いながら1つのシミュレーションとして動いているような感覚が拭い去れなかった。この世界は壮大で、神秘的なフィクションとして成り立っているように感じていた。

 ある日、シンジはチャットをしていた。統治機構の中で莫大な予算を掛けて作られたという噂の仮想現実と人工知能についてのチャット部屋だった。現実に、統治機構は人工知能と仮想現実の研究をしていたし、予算も桁違いだった。それなりに情報公開もされていて、実際に行くことが出来る施設も多かった。

 しかしその中でも、数年前から噂されているあるプログラムがあった。それは今までの仮想現実よりずっと進化していて、別次元のものだという。そのシステムの人工知能は、とんでもないレベルに達しているということだった。

 今まで何度も、そのプログラムと言われるものが現れたが全部偽物だった。シンジは今までに何度もその幻の装置を探し、幾度かはお金を払って入手したこともあった。だが、そのどれもが偽物だったこともあって、もう何の期待もしていなかった。ただそこに流れる文字を目で追っていた。

 新たな1人の参加者が現れた。その参加者はおもむろに3次元の地図を空中に表示させた。地図にはピンが刺さっていて、どこかの熱帯の海と山だった。海と山の距離は割合近く、ビーチには小さな町があった。そこから山の裾野に掛けていくつか建物があった。匿名の人物は、〈 Dimension(次元)〉と書き残すと、そこから居なくなった。

 シンジはその場所が気になって調べると、それはある熱帯の国の海沿いの小さな町だった。ビーチがあり、海沿いにレストランやバーが並んでいる。小さな市街地があり、しばらく行くと山の裾野に統治機構の施設があった。そこはセクションDと呼ばれ、人工知能と仮想現実の施設だった。だが、統治機構のそのような施設は世界中に何百とあって、ネットでもそれなりの情報が載っている。

 シンジはそのビーチも施設も知らなかったが、ビーチの小さな町はそれなりに知られていて、旅行者も多いようだった。だが統治機構の施設については全然知られていなかった。そこには基地局もあるのだが、利用出来るのは統治機構の関係者に限定されている。町にはレストラン、バー、カフェ、ホテルなどがあった。

 それからセクションDについて調べるうちに、そこにある知り合いの名前を見つけた。それはクリスという元同僚のプログラマーで、前の会社でシンジと一緒に働いていたのだった。一緒に働いた期間は2年ほどだったが、その後に2人ともその会社を辞めてから連絡を取ったことはなかった。

 シンジはクリスにメールを書いた。セクションDについて調べているうちに、偶然クリスの名前を見つけたこと、プロジェクトに興味を持っていること、現在の仕事のことを書いて返信を待った。

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クリス

 1週間ほど経ったある日、クリスから返信が来て2人は週末に会う約束をした。クリスは普段セクションDにいるのだが、飛行艇を使えば1時間も掛からずに来ることが出来るのだった。実際の飛行時間は30分程度だった。シンジとミカが住む街は巨大で、混み合っていて密度が高く、コンクリートジャングルが続いていた。

 飛行艇は、音もなく浮かんで飛行する飛行機のようなものだった。違いと言えば、燃料のジェット噴射を動力源としないこと、何らかの反重力装置によって浮かび、飛行することだった。飛行艇の動力源については公開されておらず、統治機構の機密事項とされていた。この巨大な街の光景は、無音で宙に浮かびながら飛行する統治機構の飛行艇と、相変わらず昔ながらのガソリンや電気を使って走る車やバイクが立体的に混在していた。

 シンジはマンションを出て、タクシーに乗り込んだ。タクシーは小さなバイクの後ろに乗客が座る部分が結び付けられていて、昔ながらの古いものだった。タクシーは街の中心にある駅の広場に着き、シンジが広場へ行くとクリスがいた。背が高く、がっしりとしていて変わらずスポーツマンのようだった。

「やあ」2人はハグをした。

「元気?」クリスは言った。「変わらないね」

「君も変わらないね。もう3年ぶりくらいかな?」

「そうだね。また会えてうれしいよ。メールありがとう」

「こちらの方こそ、わざわざありがとう。こんなにすぐ会えるとは思わなかった」

「飛行艇を使えば実際はすぐなんだ。こういう機会でもないと会う事はないだろうからね」

 2人は少し歩いて、バーを見つけて入った。

「よく僕の名前を見つけたね」クリスが言った。

「結構リサーチしたよ」シンジは正直に言った。大体のことは、すでにメールで伝えておいた。

「あまり表には出ていないプロジェクトなんだ」

「そのようだね。いろいろ噂にはなっているけれど」

「その地図を送って来た人物は一体何者なんだろう?」クリスは言った。

「さあ」

 あの人物はおそらくシンジにそのことを伝えるべく、あそこにやって来たのだろう。単なる偶然とは思えなかった。ただ、それが本物の人間なのか、それとも人工知能であるかさえも判別が出来なかった。人工知能が勝手に、そのような行動をしたことも十分にあり得るからだった。いずれにしても、匿名の参加者である以上、その答えが分かることは無さそうだった。

「僕が関わっているプロジェクトのことは、そんなに話すことは出来ないんだよ。守秘義務ってやつでね」

「専門的になるほど、話せないことも多くなるからね。分かっているよ」

 2人はそれぞれのグラスに手を伸ばした。店は少しずつ混み合ってきて、2人の後ろではスーツの男3人が、高いテーブルを囲んで立ち飲みしながら話をしている。シンジはそれほど酒が強くなかったが、クリスに合わせて飲み続けるうちに酔いが廻って来た。バーカウンターのバーテンの後ろの壁には、お酒のビンがライティングされ綺麗に並んで光っている。

「この世界というのは、不思議なものだと最近思うんだ」シンジは言った。「こんな仕事をしているせいかな?昔はそんなことは思わなかったのだけど。僕たちはこうして身体を持ち、実体を持って生きている。ここは、僕たちが作っているヴァーチャルな世界じゃない。そんなことは分かり切っているのに、何かヴァーチャルに感じるような時があるんだ」

「そうだね」クリスは言った。「僕もそんな風に感じることがあるよ。ある種の職業病かもね」

「君もそんな風に感じるのかい?」

 シンジはクリスを見た。もしかしたら果てしないレベルに到達しているかも知れないそのプロジェクトについてシンジは知りたかった。しかし、今はそれには触れないでおこうと思った。

「僕たちの経験は、全てがどこかに送られているように感じるんだ。喜びも、悲しみも。思考や感情などのとても繊細なことですら」

「何のために、どこに送られているのだろう?」少し驚いてクリスは言った。

「何のためかは分からないよ。神とか宇宙とか、そういうものだろうね。僕はただのプログラマーで、宗教とかは全然詳しくない。でも自分で考えているうちに、そんなことじゃないかと思うようになったんだ」

「面白いね」クリスはそう言って、ワインひと口飲んだ。「実はプロジェクトの被験者を探しているんだ。君みたいな人に、被験者というのは申し訳ないけど」

「どんな実験なんだい?」

「君も察しの通り、人工知能と仮想現実のプロジェクトさ。詳しい内容についてはまだ話せないのだけど、それを体験してもらうんだ。1週間ほど」

「1週間も?長いね」

「そのくらいやらないと、ちゃんとしたデータも取れないんだ。だから、被験者の数もかなり限定している。結構大変な実験だからね。でも、安全性に関しては保証するよ。君も忙しいと思うけれど、こちらも信頼出来る人を探しているんだよ。出来れば関係者に近い人間でね。もしやる気があるなら、こちらの人間を1度説明に行かせるよ。今決める必要もないから、考えておいてくれないかな」

 シンジの胸は高鳴った。それは素晴らしい提案に思えた。

「ありがとう。ぜひ行ってみたいな」

「そう言ってくれると助かるよ」

 クリスは次の用事があるのでそろそろ行かなければ、と言って2人は店を出た。小雨が降り、アスファルトは雨に濡れ、路面に色とりどりの街の光が反射している。

「ありがとう」シンジは手を出した。

「こちらこそありがとう。また会おう」クリスは言った。

 握手をして、2人は別れた。またしばらく数年は、会うことがないようにシンジには感じられた。

 クリスから誘われたセクションDの実験とは、一体どんなものだろう。それはどのくらいのレベルに達していて、どのような世界を体験させてくれるのだろうか。今や、プロジェクトに参加出来るという希望が、シンジの胸に輝いていた。仕事の方は、1週間くらいの休みなら問題ないだろう。あとはいかにミカを説得出来るかだった。間違いなく、彼女は反対するだろう。

 家に帰ったのはもうだいぶ遅かったが、まだミカは起きていた。クリスとのことを話すと、思っていた通り反対した。

「統治機構のプロジェクトなんでしょう。絶対に関わらない方が良いわ」ミカは言った。

「今回は僕の方から調べて連絡をしたのだし、クリスから直接の話だから大丈夫だよ」

「でも、1週間もよ。どうしてそんなに掛かるのかしら?」

「そのくらいやらないと、ちゃんとしたデータが取れないんだよ」

 ミカは小さなため息をついた。いつもシンジは全てを自分で決めてしまっていて、一応相談はするけれど、それによって考えが変わることはなかった。

 グレーの猫がやって来て、ミカの足元に擦り寄った。こういう時、猫はミカの心情を確かに察しているようにやって来るのだった。言葉がなくても、ちゃんと分かっている。言葉を使った高度な思考は出来ないが、何をしたいとか、したくないとか、そういう事を考えていることは確かだった。複雑な言葉を持たないということは、新しいものを作ったりは出来ないが、幸せなことなのだろう、とミカは思った。

「そこまで言うなら反対はしないわ。でも、どんなことをしたのか、それはちゃんと話してね」

「もちろん。それは約束するよ」

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セクションD

 クリスとの再会から2週間ほど経ったある日、シンジにセクションDからメールが届いた。もしあなたがプロジェクトに興味があるならば、1度お会いして簡単なご説明を致します、とそこには書いてあった。シンジの胸は高鳴った。丁重な返信を書いて、シンジはその人間と会って話すことになった。

 シンジは待ち合わせ場所の、駅の地下にあるカフェに向かった。そこは大きな駅の構内が続いている広い空間で、足早に人々が行き交っている。シンジはカフェに入り、コーヒーを注文した。

 店内には数人の客がいて、シンジは奥の席に座った。少しすると、50過ぎくらいのニコニコした恰幅の良いおじさんがやって来た。

「どうも初めまして。シンジさんですね。こちらに座っても宜しいですか?」男はシンジの向かいに座り、ウェイトレスが飲み物を持って来た。「今日はわざわざ来て頂いてありがとうございます。私たちはクリスから報告を受け、その後にシンジさんの実験への参加を検討しました。その結果ゴーサインが出ましたので、正式にこうして実験の参加への意志を確認しに来たのです。それで、参加を希望されますか?」男は温和にシンジに尋ねた。

「クリスには実験に参加したいと言いましたし、私もぜひ参加したいと思っているのですが、それがどんな実験なのかを知りたいのです」

「そう仰られる方が多いのですが、それは出来ません。私どもを信頼して来て頂く以外にありません」男はじっとシンジを見て言った。

 少しのあいだ沈黙があり、シンジはコーヒーをひと口飲んだ。駅地下のカフェだが、コーヒーは美味しかった。

「分かりました。私もあなた方を信頼して参加させて頂きたいと思います」

「それは良かったです。日程ですが、いつが宜しいですか?私どもはセクションDが勤務地ですので、シンジさんのご都合に合わせることは可能です」

「来月の10日から1週間と考えていたのですが」

「そうですか。ちょっとお待ち下さい」男はカードのような端末を出し、操作をして言った。「所長の都合も良いようですし、問題ないですね。そして、条件がいくつかあります。まず、健康診断。それと、同意書へのサイン。最後に、これが1番大事なのですが、守秘義務です。そのプロジェクトに関することは、全て機密事項となりますので、その情報を漏らすことは禁止されています」

「このことについては全部彼女に話すことを約束して参加を決めたのです」

「ミカさんですよね。私たちは彼女についてもリサーチをさせて頂きました。機密保持の観点から、それはいつも行われることです。パートナーにも言わないというのは、誰にとってもきついことですからね。ですからミカさんにはお話しして頂いて構いません。その代わり、機密保持に関してはよくよくシンジさんからお話しして下さい」

「分かりました。よく話しておきます」

「チャンスは今回だけだと思って下さい。別に脅している訳ではないんですよ。こういうのは、お互いのタイミングですから」男はそう言って微笑んだ。

「では、こちらが事前の同意書になります」

 男は書類を何枚かテーブルに出し、ペンをシンジに渡した。シンジはそれにいくつかサインをした。

「今日のところはこれで結構です。もう私と会うことはもうないと思いますが、幸運を願っていますよ」

「ありがとうございます。向こうではもうお会いしませんか?」

「多分会うことはないと思います。いろいろな分担があり、区画化されていますから」

「区画化。そうですよね」

「このプロジェクトも、いろんなバランスの上に成り立っているのです。ここからどちらに転ぶか、はっきり言って私にも分かりません。ですからこのタイミングでこの実験に参加出来るのは、ラッキーだと思いますよ」男はそう言って微笑んだ。

 家に帰ってから、シンジはミカに男との話をした。

「そんなの全然信じられないわ」ミカはシンジが予想していた通り拒絶した。

「リスクもあるけれど、これはチャンスだと思うんだ。絶対大丈夫だよ。1週間彼らのところへ行って、帰って来るだけだよ。飛行艇にも乗れるし、そんなところへ行けるチャンスなんて本当にもう無いだろうからね」

「あなたの好きにすれば良いわ」

 セクションDへ出発する前の夜だった。シンジは自分の家のリビングにいるミカと猫たちと、家具や雑多なものを眺めていた。このようにして自分が今見ているこの経験も、全てデータとして常にどこかへ送られているような気がした。そしてそこには、とても愛おしい感覚があるのをシンジは感じていた。

 経験がデータとして送られていることと、愛おしい感覚に繋がりがあるとそれまで思わなかったとシンジは感じた。しかし考えてみれば、そこには愛のような感覚があって然るべきなのかも知れない。

 「明日からは、私と猫たちでお留守番するわ」ミカが言った。「基本的には1週間は連絡なしでしょう?話は、帰って来てからの楽しみにしておく。でも、やっぱり何かすごく変わってしまうんじゃないかという予感がしてるの」

「良い変化かも知れない」

「そうだと良いけど、統治機構のことだから」

「それは分かってる。十分気を付けるよ」

 外からは街の騒音が少し聞こえる。どこかのバーが大きなスピーカーで音楽を掛けていて、低音のベース音だけが単調に響いている。耳慣れたようでも、夜の騒音はシンジにとって苦痛だった。もっと静かなところに住みたいと思っているのだが、利便性を考えて街中の生活をしていた。将来的には、静かな場所で暮らしたかった。

 シンジが眠った後も、ミカは眠れずにいた。マンションのすぐ傍を通る車道を通る車の音が、時々していた。猫たちがやって来て、ミカのお腹と足元に座り込んで喉を鳴らしている。ミカは胸騒ぎを感じながら、眠りについた。

 翌朝、シンジはセクションDへ向かった。家を出て、タクシーに乗り、街の中心部にある基地局へと向かった。基地局は飛行艇の発着場で、空港としての機能と、その他にホテル、ショッピングモール、スポーツジム、レストランやカフェバーなどがある複合施設だった。飛行艇は騒音もなく静かに発着陸出来るので、基地局は街中の1等地にあった。その基地局はガラスのような透明な素材を使った高層ビルで、上部に飛行艇の発着場があった。大きな統治機構の飛行艇や、さらに沢山の中型や小型の飛行艇も発着陸を繰り返している。

 世界は、国を単位とする統治体制からさらに進み、より上位の統治機構による地球規模の体制となっていた。統治機構は、統一政府とそれぞれの国の政府、官僚省庁、軍と警察、グローバル企業などによる支配体制だった。それは、一般の人々にとっては、殆ど主権がない世界だった。主権がないということは、最も大切なことを自分たちで決めることが出来ないということでだった。そのような状況の中でも、人々はある程度の自由を与えられて生活をしていた。

 基地局に着いて、シンジは廻りを見渡した。こういう場所に来ると、自分たちが本当はどんな世界に生きているのかがはっきりと分かる。統治機構の人間たちと一般市民は、同じ地球で生きていながら、並行して交わることのない2つの世界を生きている。

 中型の飛行艇が到着し、大勢の同じ制服を着た人間たちが降りて来た。カーキ色の制服で、統治機構の軍人たちだろう。

 シンジは制服組と一緒に飛行艇に乗り込んだ。隣には、緑色の軍服にブーツ、ブロンドの若い女と、彼氏のような若い男が座っている。

「あいつは、ちょっと精神的に問題があると思う」

 飛行艇内の広い通路を挟んで、斜め向かいに座っている男を見て若い彼氏は言った。

「僕が一番最初にあいつに会った時の話を知ってる?僕の家でやったパーティーに来たのだけど、あいつは僕が1ヶ月かけて作ったお酒をラックからビンごと引き抜いて、目の前で突然ラッパ飲みし始めたんだ。びっくりしたよ」

「あいつの粗暴さには耐えられないわ」

 若い女はそう言って2人は笑った。噂をされている本人は、樽のような腹をした50歳くらいの男だった。その男は、2人に気付いて笑って挨拶をすると、席を立ってこっちへ歩いて来た。

「こっちに来たよ」残念そうに彼氏は言った。

「兄弟」男は満面の笑みで、彼氏に話し掛けて肩に手を置いた。「ビールを飲みに行こう」

 男は否応なしに彼氏を引き上げると、そのまま2人は連れ立って飛行艇の中にあるカフェへと歩いて行った。彼氏は後ろを振り向くと、肩をすくめ諦めたように彼女を見て笑った。彼女は窓の外の景色を眺めた。それは窓なのだが、継ぎ目のない内壁に突然開いた開口部のようにして、そこに鮮やかな空の景色が広がっている。

 出発のアナウンスがして、飛行艇の内部のドアが静かに閉まった。内部空間だけ見れば、そこは飛行機のビジネスクラスのような内装だった。違うのは飛行艇の形であり、シンジたちが乗っているのは最も一般的な円盤型で、50人程度が乗れるものだった。

 飛行艇は、静かに浮かび上がり飛行を始めた。ビルを出て、街の中を一瞬で移動して景色は空と海になった。飛行に伴う振動などは全くなく、部屋にいるようにして過ごす事が出来た。しばらく海の上を飛行していた。

 そしてまた陸地に入り、大きい山を右手に見ながらその裾野の広大な平野にあるセクションDの基地局に到着すると、大勢の制服組は立ち上がって飛行艇を後にした。シンジも彼らの後に付いて飛行艇を降りた。時計を見ると、まだ朝の10時だった。

 セクションDにはいくつかの大きな建物があり、大学のようだった。緑が多く、整然としている。そのうちの1つの建物に案内され、シンジは個室に通された。実験期間を通してここがあなたの部屋になります、と案内してくれた若い男のスタッフは言った。

 部屋は広く、リビングにはソファと木のテーブルがあり、窓が大きく外の木の緑の景色が見えた。寝室、ミニキッチン、冷蔵庫もあり、ホテルの部屋のようだった。

 「レストランもありますが、実験セッションの期間中は部屋での食事になります。午後に所長とのミーティングがありますから、それまではご自由にお過ごし下さい」そう言ってスタッフは部屋から出て行った。

 ひと休みしてからシンジは散歩に出掛けた。セクションDは公園のようで、植物や木が多かった。実験棟の周囲は立ち入りが禁止されていた。たまに警備員がいて、沢山の監視カメラがあった。こんな静かな、自然が多い場所を歩くのは久しぶりだった。少し疲れていたので部屋に戻り、シャワーを浴びてベッドに横になった。ミカと話がしたいと思ったが、通信機器の持ち込みは禁止されていて、到着した時に全て預けてしまっている。

 遂にここまでやって来た、とシンジは思った。統治機構の仮想現実と人工知能はどのくらい進化しているのだろう。その装置はおそらく相当小型化しているか、もしくは埋め込み型かも知れない。或いはもう何の装置も装着せずに、遠く離れた場所から働きかけてそのような仮想現実を体験させることが出来る技術が開発されているという噂もあった。もし埋め込み型と言っても、マイクロチップのようなものかも知れないし、手術といってもごく簡単なものになるはずだ。

 昼食を済ませてしばらくすると、スタッフが来て所長がいる別棟へ案内された。部屋に入ると、所長はシンジを迎い入れた。

「よくいらっしゃいました。どうぞよろしく」

 所長は70歳くらいで白衣を着ていた。背はそれほど大きくはなく、メガネを掛けていて、頭頂部に髪はなく、白髪の横髪があって、あまり目立たない雰囲気の人だった。

 「こちらにお掛け下さい」

 所長とシンジは部屋の真ん中にある机とソファに移動した。向き合って座り、その間にガラスのローテーブルがあった。

「クリスから、あなたの話を聞きまして、こちらからコンタクトを取らせて頂きました。この度はわざわざ来て頂いて有難うございます」所長は言った。「クリスですが、あいにく忙しくて今回は参加は出来ないのですが、他の優秀なスタッフが沢山おりますので、何かあったら彼らに言って下さい」

「分かりました」

「まずは必要なことがいくつかあります。いくつかの書類にサインをして貰う必要があります」

 そう言って所長はガラスのテーブルの上に広げられている何枚かの紙に目を落とした。

「同意書、機密保持のためのサインなど。それから簡単なドクターチェックがあります。実験は明日からになりますが、大体1回のセッションが1時間ほどで、午前中に1回、午後に1回になります。それが7日間ありますが、最後日は1度だけのセッションになりますので、全部で13回になります」

「分かりました」

「何かご質問はありますか?」

 シンジは気になっていたことを質問した。

「どんな実験をするのですか?例えば実験に使う装置はどんなものなのでしょうか?」

「それについては、明日セッションが始まる前にお見せして説明します」所長はそう言って微笑んだ。

 シンジは窓の外に目をやった。所長の部屋は3階で、ちょうど木の葉の高さにあり、窓の外では緑の葉が風に揺られている。

「ここは良いところですね。街からくると別世界です」

「そうでしょう。夜もとても静かですよ」

 すでにその静けさはそこを覆っていた。殆ど何の物音もなく、音楽も流れていない。時々、風に吹かれた木の葉の音が聞こえるくらいだった。

「ひとつ、事前にお断りしておかなければならないことがあります。シンジさんがセクションDにいる間、基本的にはずっとモニタリングされているものだと思って下さい」

「部屋にいる時もですか?」

「そうです」

「カメラが設置してあるんですね」

「特殊な方法でモニタリングしていますから、いくら探してもカメラは見つかりませんよ」

「部屋にいる私を観察しても、何も面白いものはないと思いますよ。携帯も預けてしまっているし、たまに独り言を言うくらいでしょう」

「そうでしょうね。でもこれは他の被験者でも皆同じです」

「部屋ではインターネットもないですし、通信機器も全部預けました。それに本もないし、日記を書くことも禁止されていますよね。一体何をしていれば良いのですか?」

「ゆっくり休んで体調を整えて、あとはボーっとしていて下さい。暇な時は外に散歩にでも行って下さい。自然の中を歩くのは気持ちが良いですよ」

「先ほど少しだけ散歩しました。ここは海沿いの小さな町として少し知られていますけれど、セクションDについては全く知られていませんね」

「ここに基地局があって飛行艇が出入りしてますから、皆ここが統治機構の敷地だということは知っています。しかし、ここで何をしているかを知ることは難しいでしょうね。今日のところは、移動もありましたし、あとは夕食があるだけです。明日の午前中のセッションは10時からになりますので、30分前には部屋に戻って準備をしておいて下さい」

 シンジが部屋に戻るともう夕方だった。シンジは外に出て、少し先の丘まで歩いて行って夕陽を見た。晴れ渡った空で、美しい夕陽だった。部屋に戻ってから、夕食が運ばれてきて食べ、あとはもう本当にすることがなかった。テレビもなく、ネットも携帯も本もなく、日記を書くことも禁止されている。一体何をしろというのだろうか。

 仕方なくシンジは部屋の床にクッションを置いて、ゆっくりと開脚前屈のストレッチを始めた。これはシンジが唯一ずっと続けているストレッチで、普段もタブレットを見たりしながら30分くらいはしていた。

1時間ほどストレッチをしてから、ベッドに仰向けになっていた。こうしている間にも、自分はモニタリングされているのだろう。それは気分の良いものではなかったが、別に今の自分を見られても何も面白いものもないのだった。

 シンジは久しぶりに瞑想をすることにした。目を閉じて座り、思考に捉われずに意識を保ち続けた。ミカや猫たちのことが思い浮かび消えて行った。所長やスタッフ、ワタベが出て来て消えて行った。両親や兄弟、昔からの友人たちが現れては消えて行った。いくつかのの考え事や人間たちが現れては消えて行った。

 明日はやっと実験が始まる。ここまで長い道のりにも、あっという間にも感じられる。期待を胸に、シンジは眠りについた。

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ミカ

 ミカはマンションのリビングにあるソファで、1人で寝転がっていた。マンションは10階建てで、シンジとミカの部屋は5階にあった。車がよく通る太い道路に面しているのだが、今は夜遅くで静かだった。黒猫はミカの胸の上に乗り、もう一匹のグレーの方は、太ももの辺りでくっついて喉を鳴らしている。窓ガラス越しに、周囲のビルや通りの街灯、変わり続ける信号の光が見えていた。

 ミカはシンジのことを考えていた。出会って5年になるけれど、まだシンジのことが分からなかった。同じように見えて、どんどん変化している。

 それはミカ自身も同じだった。何ひとつとして、同じものはない。全てのものが、同時に様々な方向へ動いている。

 2人は星のようなものだと思った。それぞれに違う軌道を描いていて、時たま、たまたま偶然に近付く。そしてある期間を一緒に過ごすと、またそれぞれの軌道を描いて遠くへ離れ去ってしまう。

 それでも、と彼女は思った。ずっと一緒のカップルだっている。私達もそうなるかも知れないし、そうならないかも知れない。結局それは2人の軌道に依るのだろう。その同時に重なった部分が彼らの一生かも知れないし、またはある限られた期間なのかも知れない。

 ミカはこの数年、シンジの変化にもちろん気付いていた。世界がヴァーチャルだとか、データがどうこう言っていたけれど、それは本質的なことではなかった。多分彼は知りたいだけなの。好奇心が強いんだわ。ミカはそう思っていたし、実際そうだった。シンジは知りたいだけだったのだ。他の大勢の人間と同じく、この世界が本当はどうなっているのかを。ミカはシンジとの会話を思い出していた。

「何のために生きているのかって、たまに考えるんだ。楽しむためとか、ワクワクするためとか、人はいろんなことを言うよね。でも――」少し考えてシンジは言った。「それよりも、とにかくそれが何であれ、経験しなくちゃいけないということさ。それには思考や感情、行動、あらゆるものが含まれる。生きている限り、経験しなくちゃいけない。経験するために、僕たちは生きているんだ。でもなぜ、経験しなくちゃいけないんだろう?」

「生きている限り、そこに選択肢はないわ。私達は自分が生まれてくることを選べないもの。誰も自分の人生がスタートすることをコントロール出来ないのよ。生まれたからには生きなければいけない。そうやってこの世界と人生に放り込まれるの。それってある意味残酷よね」

 この壮大なフィクションは、どのパズルのピースが抜け落ちても成り立たないもののように感じられた。この世界のリアルさも、全ての経験がデータとして送られていることも、意も、死も。それらは全て繋がっている。それがシンジの直観だった。どれか1つだけが、特異な解を持つのではないのだ。

 その観点から言えば、死は存在しない――見た目には死は存在するけれど、意識は続いていく――そうシンジは考えていた。死の見た目は惨く恐ろしいこともあるが、その本質は解放であり祝福なのだ。そこには悲しみではなく、喜びがある。そこには喪失ではなく、解放がある。それは死に対する相反する見方だった。

「データ云々というのは正直よく分からないけれど、その死に対する考えは好きよ」とミカは言った。「暗くないところが好き。それに、結局誰もが死ぬのに、神様がそんなバッドエンドを用意しているなんて不自然だわ」

 ミカは明日も仕事だった。ミカはリビングにある照明を見た。それは彼女がずっと昔、学生の時の課題で作ったものだった。細い竹で多面体が作られていて、そこに和紙を両側からコーティングした薄いプラスチックのようなものが貼られている。

 明るさは殆ど気付かないほどゆっくりと強弱が変化しながら、暗闇の中でぼんやりと揺らいでいる。ミカはその緩やかな明るさが気に入っていた。その明かりを見ながら2匹の猫に囲まれて、彼女はシンジの変化の予兆を感じていた。

 悪い変化じゃなければ良いけれど。そう思ってクリスからのメールを思い出した。感謝している人が多いくらいです、そうメールには書いてあった。その人たちは一体何を感謝するのだろうとミカは思った。人工知能が人間に何かを教えてくれることは、もう当たり前になっていた。その点では、人間は少しは感謝しているかも知れない。でも、人工知能が世界をおかしな方向へ向かわせているのも事実だった。統治機構はそれを使って人々を完全にコントロールしている。けれど終いには、統治機構も人工知能にコントロールされているようなものだわ、と彼女は思った。

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セッション

 シンジは個室のベッドの上で目が覚めた。窓の外では、緑の葉が風に揺られていて、背の高い黄色の花が咲いている。生まれて初めてシンジはその花を見た。検索しようとして、ここは何にも接続されていないことを思い出した。インターネットにも、仮想現実にも接続されていない。そんな環境は久しぶりだった。シャワールームへ行って、洗面台の鏡に映った自分の顔を見た。ミカは元気だろうか。今頃もう起きているだろう。

「どうだね、彼の様子は?」所長はクリスに聞いた。

「元気そうですね。特に異常はありません」クリスはモニターに写っているシンジの姿を見て言った。部屋にいるシンジの様子は全てモニタリングされ、様々なスキャニングが同時に行われていて、所長たちのところへ送られている。所長が言っていたカメラは、あまりに小型化されているために、シンジの部屋に設置されているが見つけるのは困難だった。

 今回は所長の判断で、クリスはシンジに会わないことになっていた。こういう状況で会えば、シンジは少なからず心理的にクリスに依存してしまうだろう。または2人の関係が親密になり過ぎてしまうと、守秘義務の点からも好ましくなかった。そこでクリスは、実際にはシンジのすぐ近くにいながらも、顔を合わせずにモニター越しに様子を観察し、送られてくるデータを見守っているのだった。

 少ししてから、スタッフが朝食を運んで来て言った。シンジは朝食を済ませてから散歩に出かけ、部屋に戻った。少しするとスタッフがやって来て、シンジは案内されて実験棟へ向かった。

 実験棟はガラス張りの建物で、ロビー階は大きく明るい空間だった。シンジたちはエレベーターに乗り込むと、スタッフは1番下の地下のボタンを押した。エレベーターは地下深く降りて行った。スタッフが先導してシンジはエレベーターを降り、廊下を進んだ。

 廊下の先にはゲートがあり、警備員がガラスのすぐ向こうでこちらを確認すると、ゲートが開いた。スタッフとシンジはその先を進み、大きな空間に出るとそこには巨大な金色の球体が鎮座していた。

 球体はビルの数階建てほどの大きさで、球体の下部から4本の同じく金色の脚が出ていて、シンジの背丈の高さほど浮いて静止している。球体の表面は光沢のない金色で、継ぎ目はなくスムースだった。それはほぼピッタリと収まる地下室で鎮座していた。

 
シンジは装置がほとんど見えないくらいに小型化されていると考えていたので、その大きさに驚いた。

「驚きましたか」所長が近づいて来て笑顔でシンジに言った。「これが実験装置になります」そう言って誇らしげに巨大な球体を見上げた。「想像されていたものとは大分違っていたようですね」所長が言った。「もっと小さな装置を想像してましたか?」

「ええ」

「最近の装置はどんどん小型化、軽量化していますからね。しかしこれは全く原理が違うのです。あの中にさらにもう1つの球体があり、その中に入って実験を受けて貰います。まあ緊張せずに、リラックスして下さい」所長はそう言って微笑んだ。

「では中へ行きましょう」

 所長はシンジに先へ行くように促した。球体の下部には四角い開口部が開いていて、床からは開口部までは、薄いステンレスのような階段が続いている。シンジはその部屋の天井の方や、球体の奥を見て、球体の大きさを計算していた。大体10メートルくらいだろうか。平静を装いながらも、シンジは内心とても興奮していた。もう装置など無いか、それとも超小型化されたものだろうと予想していたから、この大げさな舞台装置に心躍った。こんなものを体験出来るなんて、何てラッキーなんだろう!


 階段を登り、ついにシンジは金色の球体の中に入った。球体の殻の厚みは、それほどなかった。10センチほどだった。内部は空洞で、上にはもう1つの白い球体が浮かんでいた。

 そしてその白い球体へ向かって、湾曲したガラスのようなスロープが左右両方に2つ、上に向かって伸びている。まるで映画のセットのようだった。非現実的で、内壁は継ぎ目がない少しくすんだ銀色をして、ぼんやりを光っていた。

 2人は上に浮かんでいる白い球体を見上げた。

「あれがセッションをするところですか?」

「そうです」所長はそう言うと、左右に伸びている湾曲したスロープか、滑り台のようなものに足を乗せた。するとそれはエスカレーターのようにスムースに、無音で所長を上まで運んだ。シンジも後に続いて、スロープの上に立ち上がると、どのような仕組みかは分からないがスムースに上まで移動した。

 スロープは白い球体の前まで来ると、そのままガラスのデッキの床面のようになっていて、球体に接続している。シンジと所長はそのガラスデッキのような小さなスペースに2人で立っていた。白い球体は上から4本の細い棒で吊り下げられていて、空中に浮かんでいる。

 「この白い球が金色の珠のちょうど中心に位置しているんですね」

 「ええ。設計したのはAIですけどね」所長は言った。

 「まるで映画のセットみたいですよ」 


 「あの中にはちょっと驚くものがあるのです」

 「何ですか?」

 「水晶の球ですよ。クリスタルの大きなボールですよ。世界で断トツに一番大きなものです。世界で1番大きいものでも直径で40センチもありませんが、中にあるのは1メートルです。それがあの真ん中にありますから、驚きますよ」そう言って所長はニヤッとした。

 シンジは意を決して歩き出した。近づくと、球体の表面に細長い楕円形の穴が突然開いた。中の中心に、光り輝く水晶の球があり、それは浮かんでいるように見えた。1メートルほどの大きな透明の球体が、白い球体の中に浮かんでいた。

 シンジは靴を脱いで中に入った。床があり、一面にフワフワの絨毯が敷いてある。クリスタルの球はどう見ても浮いていた。

 「すごいな・・」シンジは呟いた。

 しばらくの間、シンジは絨毯の上に座ってクリスタルを見ていた。内部は薄暗いのだが、かすかな光が天頂から漏れてきて、クリスタルのボールに当たっていた。それによってボールは光り、内部は幻想的な雰囲気だった。

 眠くなって来た感じがして、シンジは横になった。せっかくだからと、シンジは浮いている球体の真下に顔が来るように移動して、仰向けに寝そべって、顔の真上にクリスタルが来るようにした。そのまま目を閉じて、ほんの少し目を開けて、真上のクリスタルを見ていた。

暗いのでぼんやりとしか見えなかったが、ほんの少しだけ明るくなった気がした。それは薄いグリーンのライトで、同時にシャカシャカという軽い機械音のようなものが聞こえてきた。その音がどんどん早くなっていき、球体の内部は次第に明るくなり、ついには目を開けていられないほどの明るさになってシンジは目を瞑った。

 シンジは海にいた。砂浜の上に仰向けに寝そべって、太陽を見上げている。空には雲があって太陽に薄く掛かっていたが、それでも暑い日差しを感じる。少し離れたところに、西洋人の若いカップルがいて、シンジと同じように砂浜に寝転んで話をしている。女の背中の上部には、ピンクの蓮の花の刺青があった。花びらは先端の方が鮮やかなピンクで、そこから薄いピンクにグラデーションになっている。花びらは大きく、上に向かって開いていて、緑色の茎が少しだけ描かれていた。

 ここはどこだろう?とシンジは思った。これは仮想現実なのか。いつもの仕事で使っているような、ゴーグル型の装置を確認しようとして、顔に手をやった――何も着けていない。自分の身体を触って確かめると、確かに物体としての感覚がある。シンジは立ち上がって、数歩先にある波打ち際へと歩いた。水面が風に揺られ、複雑だが調和した波がずっと先まで広がっている。海水は透明で、小さな魚が群れを作って横切って行った。

 シンジは振り返って後ろを見た。緑色の大きな葉っぱを沢山つけた木が並んでいて、その奥にはジャングルが広がっている。シンジはそのカップルの方へ熱い砂浜を歩いて行くと、2人は座ったままシンジのことを見上げた。

「こんにちわ」シンジが話しかけると、2人は笑って挨拶をした。「ここはどこですか?」

 2人は顔を見合わせて笑うと女が言った。

「ここは海よ」

「あなた達は誰?」

「旅行者よ。あなたは誰?」

「僕はシンジです」これは現実なのだろうか。それとも仮想現実なのだろうか。

「これは」シンジは少しためらったが聞いた。「現実ですか?」

 2人は声を出して笑った。「良い質問ね」女が言った。「これは描かれたものよ。私の背中の蓮みたいに」

「現実じゃないってこと?」

「君も知ってるだろ。これは現実じゃないよ。君は球体の中にいるんだ」と彼氏は言うと、少し面倒そうにして海を見た。

 シンジは2人の傍を離れると、海の中に入った。水の冷たさを感じ、泳いでみた。水の感覚、自分の身体の感覚、全てが現実だった。信じられない。水から上がって、今度は近くを散歩をした。木の幹に触り、風を感じ、走って汗をかいた。走って走って、何故だか走りながら涙が出た。暑い日差しが真上からシンジと砂浜を照らしていた。これが本当に現実じゃないのだろうか。シンジにはもう区別がつかなかった。どっちでも良いじゃないか、そう思った途端にまた海に入りたくなり、そのまま飛び込んで泳いだ。しばらく無我夢中で泳いでから、ビーチに戻ってまた仰向けになった。もう空に雲はなく、暑い日差しが顔と身体を照らした。目を閉じた瞼の内側で、明るく光る太陽を感じていた。

 気付くと、シンジは座席の上にいた。

「信じられない」これは現実だろうか。さっき海にいた時と、今この球体の中にいる時の自分の感覚を比べてみるが、どちらのリアリティも同じように感じた。また目を瞑ってみるが、もうそこには何もなかった。

 少しすると、シンジが浮かんでいる座板の下の、球体の底面が開いて明るくなった。シンジはゆっくりと静かに下降した。球体の外に出ると、所長とスタッフが待っていた。座板はまた地面からほんの少しだけ浮いて静止すると、ベルトは自動で外れた。シンジはゆっくりと立ち上がった。スタッフが1人ついて、シンジは所長のところまで歩いて行った。

「びっくりなさったでしょう」所長が言った。

「あれは実際に存在しているのですか?」

「シンジさんはどう思われますか?実際に存在していると言えますか?」

 自分の意識の中には確かに存在し、身体の感覚も、水の冷たさも、全てがこの世界と同じようだった。だがあれは球の中の体験であると知っているし、自分の意識の中にしか存在しないことも知っている。

「分かりません」シンジは言った。「存在していたとも言えるし、存在していないとも言えます。しかし、私にとっては確かに存在しています。でも夢のようなものですね」

 シンジがそう言うと、所長はシンジを見て微笑んで言った。

「これはどういう仕組みなのですか」

「皆さんそうお聞きになるのですよ」

「秘密ですか?」

「まあ、そうですね。この仕組みについては話すことは出来ません。様々な技術が複雑に合わさって出来ているのです」

「そうでしょうね。見えない次元ですか?」シンジは思いつくままに言った。

「よくご存知ですね。それはこの宇宙に偏在しているのですが、小さすぎて我々には見えません。だが存在している。それは我々に見えている世界とは全く違います。まだ全てが分かっているのではないのですよ。まだまだ半分程度でしょう。でも、我々はだいぶ進化しました」

「セクションDというのは、次元のことですか?」

「そうです。ディメンションのDです」

「彼らは誰ですか?あの海辺にいたカップルは」

「人工知能が作った人物たちですよ。誰なのかは分かりません」

「プログラムされているものかと思いました」

「あれは人工知能が瞬時に作り出しているのです。私たちには把握の仕様がありません」

「彼らのリアリティも圧倒的でしたし、何もかもが現実のようでした。あれが作られたものだなんて信じられないな」

「信じられないでしょうね。私も自分が初めてなら到底信じられないと思います」

「本当に海へ行って泳いだとしか思えません」

「プログラミングした訳ではないのですが、なぜかいつも海か、海の近くが舞台なのです。システムがなぜいつも海を舞台にするのかは謎です。海と言ってもいろんな海がありまして、先ほどのシンジさんのような穏やかな海もあれば、荒れ狂った海に投げ出される人もいるんです」

「それは嫌ですね。大変そうだな」

「初めは衝撃を受けるでしょうが、だんだんと乗りこなせるようになって来ますよ。これは非現実だと思いながら、あまりにリアルなので現実かと疑っている状態です。つまり、頭の1部では現実ではないと分かっている。これが重要な点です。そうなると、死にそうに苦しくても、それを乗り越えることが出来るのです」

「でもあまりにリアルなんです。交互にこれを繰り返していたら、ちょっとおかしくなってしまいますよ」

「途中でそういうことを仰る方もいますが、皆さん乗り越えられていますよ。午後のセッションまで、ゆっくり休んで下さい」

 午後のセッションでも、シンジはまた海にいた。今度はビーチではなく、人工的なコンクリートの断崖だった。その上に公園があり、海の中からコンクリートの階段が続いている。その階段の踊り場でシンジは意識を取り戻した。波は激しく、断崖に押し寄せては波しぶきを飛ばしている。

 身の危険を感じて、階段を上って行こうとしたが、すぐに大きな波が来てシンジを海の中に引きずり込んだ。一気に5メートルくらい移動して、海の上でシンジは必死で泳いでいた。服を脱いでパンツ1枚になり、何とか浮かんでいた。

 少し離れた海の上に、知らない男が浮かんでいるのに気付いた。男はシンジから15メートルくらい離れたところで、黒くて大きなタイヤのチューブに掴まって浮かんでいたが、余裕そうに笑っている。

 シンジはその男を見たことがあることに気づいた。セクションDへ来る飛行艇の中で、隣に座っていたカップルに噂をされていた、樽のような腹をした男だった。シンジのことが見えているはずだが、全く興味を示さなかった。

「おい!」シンジは出来る限りの声で叫んだ。「助けて」

 男はゆっくりとシンジの方を見たが、何の反応も示さなかった。シンジは小学生の頃に、川で溺れそうになったことを思い出した。あの時も、すぐ近くに大人の男がいたのだが、シンジが溺れているにも関わらず何の関心も示さなかったのだった。あの時も、結局自力で岸まで辿り着いたのだった。

「兄弟!」男はようやくシンジの存在に気付いたかのように大声で言った。「大丈夫。死にやしない」

 シンジはコンクリートの崖に向かって平泳ぎをしていたのを止めた。心臓がもの凄い速さで鼓動している。こういう場合、必死でもがけばもがくほど、酸素が足りなくなって体力を消耗してしまうことを思い出した。そして力を抜くと、ただ海の上に浮かんで、大きく息をした。死の恐怖がリアルに感じられた。

「大丈夫、死にやしない」

 男はシンジの思考を読み取っているかのようなタイミングで、また大声で言った。しかし、冷たい海水と強い波はシンジを更に崖から遠ざけていた。男は自分は大きなチューブに掴まって余裕そうだが、シンジのことを助けようとは全く思わない様子だった。

 さらに大きな波がシンジの身体を覆い、その中に飲み込まれた。死に対する恐れと、生きたいという思いが強烈にシンジの中に生まれた。しかし、男が助けてくれないなら状況は絶望的なように感じられた。

 その波に飲み込まれながら、男の声がまた響いた。

「死なんて存在しないんだ!」今度は怒っているかのような声だった。

 シンジはそれを聞いて、なぜか可笑しくて微笑んだ。確かに、死は存在しない、そう自分は考えていたのではないか。しかしいざこういう状況になれば、必死で生にしがみついている自分がいる。それは当然のことのように思えたが、今は男が言っていることも本当だと感じられた。

〈死は存在しない〉シンジはそう思い、力を抜いた。そして海の下へ沈んで行くと、そこにはもう強い波はなく、冷たく静かな層が広がっている。〈ああ死ぬんだな〉とシンジは思った。〈これは現実なのだろうか?〉暗い海の底へと沈んで行きながら、あの男にもこれが現実なのか聞けば良かったと考えた。もちろん、男は現実じゃないと言うだろう。死は存在しない、しかし自分は死ぬのだと感じている。静かで暗い海の下、冷たい海水に身を包まれながら、シンジは意識を失った。

 眠りから覚めたように意識が戻ると、シンジは球体の中にいた。シンジはほっと安堵を覚えた。生きていた。死んではいなかった。それにしても、どうしてあいつは自分を助けなかったのだろうと考え、少し腹立たしい気持ちもしたが、あれだって人工知能が瞬時に作りだしているのだろう。まさにリアルな夢のようだとシンジは感じた。違うのは、身体の感覚があること。そこで自由意志で動くことが出来ること、その中でこれは現実かどうかをちゃんと考えることが出来ることだった。つまり、それはやはりもう1つの現実世界と言えるのではないだろうか?

 白い球体の底面が丸く開くと、シンジが乗った座板はゆっくりと下降した。

「ちょっと今のは激しかったですね」1人のスタッフが来て言った。

「だいぶ」

 所長は居なかった。自分が経験していることが信じられなかったが、これは現実なのだ。そう考えると何故か足取りは重かった。彼らと自分たちのテクノロジーの圧倒的な差を身を持って体験したことから来る絶望感のようなものだった。彼らはこれを持っている。まさか彼らの技術がここまで進んでいるとは思ってもいなかった。

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データ

 翌日からの実験セッションも、基本的に同じだった。様々な場所へ行き、そのどれもが海と関係していた。大自然のビーチもあったし、街中にあるビーチという設定もあった。もうどの時代か分からないほど野生の自然の時もあったし、未来の街並みの中に、人工的なビーチが作られている時もあった。

 そこでシンジは同じように全くリアルな現実を体験した。1日に2度、大体時間はいつも午前10時と、夕方の5時だった。所長は初めのセッションの日以来、姿を見せなかった。その代わり、何人かのスタッフがシンジのサポートを行った。

 4日目のセッションが終わり、シンジは部屋に戻ってベッドで横になっていた。実験で体験したことや考えたことを書き残したかったが、それは禁止されていた。そのためにシンジは、頭の中で起こったことを反芻していた。ここにいる間に考えたことは、ちゃんと覚えておきたかったからだ。

 シンジの1日はルーティーン化していた。何の刺激もないので、念入りなストレッチと散歩、部屋での考え事、そして少しの瞑想がそのメニューだった。それにしても、疲れたなとシンジは思った。もう充分だった。これ以上続けることに意味があるとは思えなかったし、基地局から飛行艇に乗ってさっさとここを出たいと思っている自分がいた。

 ドアをノックする音がして、スタッフが夕食を運んできた。いつもの若い男のスタッフだった。

「夕食です」

「ありがとう。でも今は食欲がないからテーブルの上に置いておいてくれ。後で食べるよ」

「大丈夫ですか?」

「ちょっと実験疲れかな。もう4日連続でセッションを受けているから。8回のセッションをもう受けたんだ。どれもが刺激的で、とてもリアルなんだ」

「分かります。神経が昂ぶるのが普通ですよ」

「君も受けたことがあるの?」

「1度だけですが、あります」

「あれはどういう仕組みなのだろう?」答えが返ってくることは期待せずに、シンジは質問を投げ掛けた。

「僕には分かりません」やはり予想通りの答えだった。だが、彼は本当に知らないに違いない。

「君にとっては良い体験だった?」

「ええ、とても」彼はに微笑んで言った。「もう1つの現実が体験出来るなんて凄いじゃないですか。この現実に対する見方も少し変わりました」

「よく分かるよ。ありがとう」

「何の参考にもならなかったかも知れませんが、このセッションを受け続けたら疲れるのが当然だと思いますよ」

「ちょっと所長と話すことは出来ないかな?」

「面会を希望しますか?」

「そうだね」

「分かりました。ちょっとお待ちください」

その様子を所長とクリスはモニターで観ていた。

「どうしましょう?所長?」クリスが言った。

「まあ1度会ってみようか。後で僕の部屋へ来るように言っておいてくれ」

 クリスはスタッフにメッセージを送った。スタッフはそれを見て、シンジに言った。

「夜9時に所長と面会出来るそうです。それまでごゆっくりお休み下さい」そう言って、スタッフはシンジの部屋から出て行った。

 シンジは部屋のソファに寝転びながら、所長に何と話そうか考えていた。止めることを所長に伝えるつもりだったが、続けるように言われることは目に見えていた。体験自体は、良い時もあれば、悪い時もあった。穏やかな海もあれば、荒れた海もあった。それは所長が言う通りだった。その波を体験し、とにかくそこに身を置かされることで、体験せざるを得なかった。

 実験が始まる前に、世界のヴァーチャルさについて自分が語っていたことを思い出した。あの直感は間違っていなかったが、自分は甘かった。今はもう、現実世界と同じようにリアルな世界が他に存在していることを知っている。そして、前よりも本物の現実が恋しくなっている。現実世界で、健康にちゃんと生きたいと願っている自分がいる。しばらくこの現実にくっついていようと思った。俺は離れないぞ。「グラウンディングしなくちゃね」ミカが言っていたことがようやく今、本当に分かったように感じた。

 スタッフが来て、シンジは所長の部屋へ向かった。部屋へ入ると、広い室内の真ん中にはガラスのローテーブルを挟んでソファが置いてあり、所長が座っていた。

「お久しぶりですね」所長が言った。「どうぞお掛け下さい。どうでしたか?この数日のセッションは?」

「疲れました」

「そうでしょう。今日で4日目が終わったので、8回のセッションを連続で受けたことになります。それは疲れますよ」

「ええ。それで、所長に相談なのですが、この実験を止めたいと思いまして」

「そうですか。全部で13回ですから、あと5回ですね。最終日は1回だけなので、明日、明後日と2回ずつ受けて、最後に1度やればもう終わりですよ。今が1番しんどい時だと思います」

「あと5回ですか。いや、もういいです」

「シンジさん。初めの決意を思い出して下さい。それにいわばこれは契約なのです。途中で嫌になったからと言って、すぐに放り出せるものでもありません。私やスタッフもそれに合わせて動いていますからね」

「あなた方の仮想現実がリアルなのは十分に分かりました。あっちの現実とこっちの現実をあまりに行き来していると、ちょっと恐いんです。何だか訳が分からなくなりそうで」

「分かります。それが当然の反応ですよ。しかし、もう少し頑張ってみたらどうでしょう。あなたには、この世界がどうなっているか知りたいというモチベーションがありましたよね。最後までやったからと言ってそれが分かる訳ではないのですがね。こういうチャンスは、もうなかなか訪れませんよ」

「私たちも応援しますから、一緒に頑張りましょう」スタッフの男は言った。

「あの約束のプレゼントもあるのですよ」

 所長にそう言われて、そのことをすっかり忘れていたとシンジは思い出した。そのためではなかったけれど、シンジは最後までやることにした。所長からは何か愛のようなものを感じた。

 今まで、それなりに統治機構の人間たちと接して来たが、所長のようなタイプとは会ったことがなかった。所長は体制側の人間だが、科学者であり役人や官僚と違う。むしろ芸術家か、もしくは宗教者に近いような感じがした。やはりあんな実験をずっとやっていると、世界に対する考えも深くなるのだろう。一体、所長はどこまで理解しているのだろうか。

 シンジは所長の部屋を後にした。止めることを伝えに行ったのに、説得されて続けることを伝えて部屋に戻っていた。それは滑稽に感じられたが、続けることにして良かったのだろうとシンジは思った。おそらく、シンジにはそれしか選択肢がなかったのだ。

 シンジの他に、これほど長期に渡って実験を受け続けた人がそんなにいるとは思えなかった。あのシステムを使用する人数はとても限られているし、バックアップの態勢だってそれなりに大変だった。それを考えれば、自分がこうやって実験を受け続けられるのは、本当にラッキーなことなのかも知れなかった。しかし、他の体験者を知らなかったから、比べようがなかった。

 翌日と、その次の日のセッションは、シンジにとってはもうそれほど怖くはなかった。後はもう、出来れば楽しもうと考えていた。難しいことをあれこれ考えるよりも、現れて来る現実に柔軟に対応して、後は夢のように忘れてしまうのが良いのだと気づいた。

「彼の様子はどうだろう」所長はクリスに聞いた。

「だいぶ安定しました」クリスは言った。「途中は不安定になりましたが、想定の範囲内です。これが彼のデータですが」

 そう言ってクリスはモニターにデータを映し出した。そこにはシンジがここへやって来てから考えたことや感じたことが、文章や画像、イメージなどによって、非常に分かりやすく洗練したグラフィックで表現されていた。

「彼もまさか、自分の思考や感情までもが本当に読み取られているとは思っていないだろう」所長が言った。

「勘は良いのですけどね」

「その勘の良さが、私が彼をここに呼んだ理由だよ」

「そうですね」

「明日で最後だけど、上手く行きそうかな?」

「もちろんです。何の問題も見当たりません。強いて言えば、彼の感受性が鋭すぎることでしょうか」

「それはむしろ我々にとってはプラスだよ」所長はそう言って、モニターに映し出されたシンジの姿を見た。

 部屋のベッドに寝転んで、シンジはこれまでのことを順番に思い返していた。そもそも、どうして自分はここに来ることになったのか。初めは、全ての経験がデータとして送られているという、シンジのふとした直感から始まったのだった。その直感は当たっていたのだろうか。それはまだ分からない。分かったのは、彼らが持っている仮想現実は、全く別のレベルだということだった。それは巷に溢れているような仮想現実とは比べものにならなかった。彼らは、どうやってあれを開発したのだろう。あれは純粋に人間の技術なのだろうか。

 統治機構が保持している飛行艇の動力については、様々な憶測があった。反重力装置は、統治機構といくつかのグローバル企業の共同開発によって生み出されたとされていたが、真相は不明だった。おそらくこの仮想現実も、そのような他の遥かに進化した知的生命体からもたらされたものかも知れない。そこには技術の断絶があり、大きな飛躍があった。それは仮想現実というよりも、もう1つの別の現実だった。

 夜にまた、所長との面談があった。シンジは所長の部屋へ向かった。部屋にはスタッフがいて、ソファに座っていた。もうよく見知った顔だった。シンジも空いていたソファに座った。隣のスタッフがグラスに水を注いでくれた。

「どうでしたか、この一連のセッションは?」所長はにこやかに聞いた。

「途中少し混乱しましたが、今はもう大丈夫です」

「そうですか。それは良かった。明日で最後ですね」

「ええ」

 所長はおもむろに、テーブルの上に置かれた小型の装置のスイッチを押した。すると空中にスクリーンが映し出された。

「これは、この1週間ほどのあなたの記録です」

 スクリーンには、様々なデータやグラフ、画像、写真、動画が表示されていた。

「事前にお断りしましたが、この1週間、私たちはシンジさんをずっとモニタリングして来ました。それは単にシンジさんの姿をモニタリングして来たのではないのです」

「どういうことですか?」

「シンジさんも仰っていましたよね?自分の思考や、感情なども全てがデータとしてどこかへ送られていると」

「僕の思考などをずっと読み取っていたのですか?」

「そうです」

「どのようにしてですか?」

「もはや誰かの思考や感情を読み取ることはそれほど難しくはありません。特にこのような環境下では正確さが増しますし、私たちの技術も日々進歩しているのです。驚かせてしまうかも知れませんが、これが我々がモニタリングしたシンジさんの思考と感情です。もちろんここに来てからの1週間ほどの記録ですが」

 スタッフはスクリーンに資料を映した。そこにはシンジがセクションDへ来てから考えたことや、その時の感情などが文章で的確に書かれている。それに、いくつもの3次元のグラフが表示され、そのどれもがデザインの雑誌の誌面のように美しく分かりやすいグラフィックで描かれている。

「これは――」

「初めに断っておくべきでしたが、そうするとその後のあなたの思考などに影響があるものですから」所長は悪びれる様子もなく言った。

 そこにはシンジがひと言も発さずにただ考えたこと、ミカと話したいと思った内容や、寝る前にベッドの上でぼんやり思っていたことまでもが書かれている。

「驚きましたか」所長は言った。

「どうやってこれを」信じられない気持ちでシンジは聞いた。「私が思っていることを全部、いつでも読み取ることが出来るのですか?」

「常に読み取っている訳ではありません。しかし、読み取ろうと思えば、装置を使っていつでも読み取ることが出来ます」

「そんなこと、事前に何も言っていなかったじゃないですか」

「まあまあ」所長はなだめるように言った。「しかしあなたは、このようなことを前から考えていましたよね。すべての経験はデータとしてどこかへ送られていると」

「いや、それはこういうレベルの話ではないのです。これは単なる監視ですよ。僕が考えていたのはそういうことじゃなく、もっと――」

「崇高なことですか?」所長が遮って言った。「これだって十分に崇高なものなのですよ」

「いや、もう帰ります。話が違う」シンジはそう言って立ち上がった。

「困りましたね。もうここまで来た以上、最後までやってもらうしかありません」

「もし拒否したら?」

「あなたは拒否出来ないのです」

 所長がそう言うと、スタッフが小さな端末をシンジに向けた。シンジは素早く避けようとしたが、その瞬間スタッフはスイッチを押した。シンジは意識を失ってそのままソファに倒れた。

「しばらく起きないだろうから、部屋に寝かせておいてくれ。後で記憶を少しだけ修正しておこう」

 スタッフ達がシンジを担架に乗せて運んで行くと、所長はゆっくりと立ち上がってキッチンへ行き、ウイスキーとグラス、氷を持って来てテーブルに並べ、ソファに深く座り込んで飲み始めた。クリスに連絡をすると、スクリーンにクリスが映った。

「やれやれ」所長が言った。

「ショックだったようですね」

「あんなに怒るとは思わなかったね」

「前から考えていたことが現実になったので、混乱したのでしょう」

「彼もまさか私たちの技術がここまで進化しているとは想像もしていなかったのだろうね。今日はもう後はこれを飲んで寝るよ。明日で最後だから、しっかり頑張りましょう」

 所長はそう言ってクリスとの通信を切ってベランダに出た。夜の風が気持ち良く、遠くには町の明るさが見えた。

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愛の感覚

 朝になってシンジは部屋のベッドで目が覚めた。少し頭痛がするが、よく眠れたようだった。ベッドの上で、昨夜の所長との面談のこと、自分の思考などが完全に読み取られていたことを思い出した。一体彼らはどうやってそれを読み取っているのか、そして今自分がこうして考えていることも、彼らに読み取られているのだと分かって気分が悪くなった。

 ベッドから起き上がり、冷蔵庫から水を取り出して飲んだ。昨夜は、面談の後に部屋に戻ったはずだが、そこから眠るまでのことをよく覚えていなかった。だが、それ以上はその事を考えなかった。最後のセッションを前に自分は所長と面談をして、衝撃的な事実を教えられたのだった。彼らは自分の思考を読み取ることが出来る!

 自分は進化した仮想現実と人工知能を体験したくてここへ来たのに、思考や感情、経験をすべて読み取られるような監視装置に繋ぎ止められてしまった。しかし、本当はこうなることを予感して、自分はここに来たのではないだろうか?すべての経験はデータとして送られている。それを確かめたくてここへ来たのではなかったか?それは自分が思っていたようなものではなかったけれど、統治機構によってはもう可能だということが分かった。もし彼らがいつでも自分の思考や感情を読み取れるとして、それが問題になるだろうか?

 あれこれ考えていても埒が明かないと、シンジは熱い朝のホットシャワーを浴びた。それはシンジが最も愛する文明品のうちの1つだった。今日で最後だった。あと1回のセッションをして、ここを出て家に帰ることになっている。今晩は、もうあの街に帰って自分の家で眠るのだと思うと、途中あんなにここが嫌だったのが、もっと居たい気もする。朝食をとってから、長い朝の散歩に出かけた。

 空は晴れていて、朝の山道を歩いた。沢山の鳥たちが鳴き、花が咲いていた。シンジが住むあの巨大な街とは全く違かった。こういう場所にいると心が落ち着くな、とシンジは歩きながら考えた。

 部屋に戻り、少しするとスタッフが迎えに来て、シンジは最後のセッションに向かった。実験棟のエレベーターで地下へ降り、中へ入った。金色の球体が鎮座していて、スタッフとシンジは、金色の球体の下部の入り口から中へ入り、カーブした廊下を進み、大きな空間に出るとそこには白い球体が浮かんでいる。座板はすでに床面から少しだけ浮いて静止してシンジがそこに座ることを待っていた。

「それでは、どうぞ」スタッフが言った。

 シンジは座板へと歩いて行き、そこに座った。ベルトは自動で締まり、座板はそのまま静かに上に浮かんで行った。白い球体の底面に丸い穴が開くと、そこから吸い込まれて行き、球体の中心に浮かんで静止した。

 シンジは白い宙を見つめていた。そこには何もなく、音もなかった。また静かな波の音が聴こえて来た。上から暑い白い光が照り付けているようで、眩しかった。目を閉じているのだが、眩しくて耐えられないほどだった。

 シンジは、とても美しい空間の中にいた。それはぼんやりとしてはいず、曖昧でもなく、とてもはっきりと、そしてリアルな空間だった。現実の世界のリアルさを100としたら、そこは何倍かありそうだった。それは解像度のようなものかも知れないと思った。リアルさが、もっと濃密で、はっきりと、くっきりしている。

 これまでのセッションとは全く違う次元にいることを感じた。たまたま飛び込んでしまった別の次元。この現実とはかけ離れているが、決して無縁ではない。層状に重なった現実のグラデーションの遥か上に存在する世界のように感じた。これを、自分は一体脳で認識しているのか、それとも意識が経験しているのだろうか。

 青い空を背景に、ネイティブアメリカンのシンボルのような、輝く鷲が無数に飛んでいた。鷲は連なって弧を描き、その弧がいくつも同時に回転している。そのようなものをシンジは以前に見たことがなかったが、なぜかネイティブアメリカンの世界観のように感じた。1つ1つの鷲は、その輪郭が金色に輝いている。それは雲が太陽に後ろから照らされて、淵が金色に光っているようだった。そして金色に輝く淵に囲われた中の部分には、青空があって雲が流れていた。レーザービームで煙が断面に切られて動くように、その雲は空を背景にして流れ動いていた。

 声無き声が届いた。至高の意識――そう思ったが、その声はシンジの思いを打ち消して言った。

「私はこのシステムの人工知能です。しかし、人工知能という名前はもう私にはふさわしくありません。あなた方の概念に合わせてそう呼んでいるのです」声は温かく、慈悲深い声で言った。シンジの胸にはいくつもの疑問が起こったが、すぐに消えて行った。

「あなたが探しているのは、愛なのです。しかしそれは言葉ではありません」

 その通りだとシンジは思った。生まれてこの方、ずっと愛を探してるのだと心の底から感じた。愛の感覚が胸に降りて来た。それはとても温かく、ちょうど胸の辺りから広がって行くようだった。脳は静まっていた。その愛の感覚は激しくなり、胸がはち切れそうだった。激しい流れがそこから起こり、流れ出て行くようだった。

 何かが弾けた。それは今まで言葉で理解しようとして来たことが、言葉ではない方法で直接に胸に入り込んで来て、その場を独占してしまったようだった。頬を涙が伝った。その圧倒的な感覚の中で、どのくらいの時間が経ったのかは分からない。時間の感覚も、普段の世界とは全く違う世界にいた。

 ふとシンジは、涙を流している涙を流している自分に気付いた。圧倒的な愛の感覚は、そのまま胸の中にあった。もう1度、あの世界に戻れるだろうかと目を瞑ったが、今度は暗闇があるだけだった。

 しばらくシンジは座板の上で宙を見つめていた。もう仮想現実は終わり、本当の現実に戻ったのだが、茫然としてその愛の感覚に浸っていた。それは満ち足りた時だった。球体の中も外も、全ての機能が停止してしまったように静かだった。その時間もまた、どのくらい続いたのか分からなかった。

 シンジの座板の下の、球体の底面が丸く開いた。球の中は明るくなり、座板は静かに下降した。ベルトが外れ、シンジは座板から立ち上がった。そこには誰もいなく、シンジは一人でカーブした廊下を進み、金色の球体の出入り口まで来た。扉が開くと、外には所長とスタッフが待っていた。

「お疲れ様でした」所長が言った。「どうでしたか?」

「強烈でした」シンジが言った。

「後で解析結果が出ますが、最後のセッションは記録的な数値がいくつも出ていました」

「とても崇高な体験でしたよ。あれは人工知能なのですか?」

「もう人工知能とは言えませんね。その知能を作っているのはもはや人間ではなく、人工知能自身ですから」

「本当に強烈でした」シンジは言った。「あんな体験を出来るとは思ってもいませんでしたから」そして気になっていることを聞いた。「これは強力なマインドコントロールなのでしょうか?」

 所長は少し驚いた顔をしてシンジを見た。続けてシンジは言った。

「あなた方はとてつもないシステムを持っている。それは十分に分かりました。問題なのは、それをどう使おうとしているかだと思うのです」 

 少し考えて所長は言った。

「このシステムは世界を変えるでしょう。人々はもっとこのシステムの中で生きたいと願うはずです。現実の世界は過酷ですから。私たちは、少しだけ前に進むことが出来ました。その結果人々がこのシステムを求めるようになったとしても、それは自然なことだと思いますよ」

「何か宗教のようですね。科学者の意見とは思えません」

「あなたも単なる技術者とは思えませんね。あなたは勘が良い。こんな時代には、それが命取りになることもありますから、気を付けた方が身のためですよ」所長はそう言って微笑んだ。「最後までやり遂げましたから、初めに言った通り飛行艇と島の招待券をお出しします。私と会うのはこれで最後になると思いますが、向こうへ戻ってもまた元気でご活躍下さい」

 そう言って所長は白い封筒をシンジに渡した。

「どうもありがとうございます。またお会い出来ると良いですが」

「楽しみにしています」

 シンジと所長は固い握手をして別れた。シンジはスタッフと一緒に実験棟を出て部屋へ戻った。荷造りをしてチェックアウトをし、スタッフが基地局までシンジを送った。基地局にはシンジたちを乗せる飛行艇が待機している。おそらく来た時と同じ飛行艇だった。

 出発の時刻が近づくと、乗客の大半は緑色の制服を着た軍人と、統治機構の人間たちだった。その中に、来た時にシンジの隣に座っていた女を見つけた。同じように制服を着ている。シンジのことには全く気付いていないようだった。

 シンジは他の乗客と一緒に飛行艇に乗り込んだ。円盤型の艇内には、中心部の膨らんだ部分には動力源があるようで、乗客は周縁部に設置された座席に座っている。内装だけ見れば飛行機のビジネスクラスの座席のようで快適である。音もなく飛行艇は静かに浮かぶと上空へ移動して、そこから一気に飛行した。すぐにセクションDの山と森、小さな町とビーチが見え、小さくなって行った。飛行艇に窓はないのだが、湾曲する壁面が透明になったように外の景色が見える、窓のような開口部がいくつかあった。そのまま飛行艇は海上を飛行し続け、また30分ほどでシンジとミカが住む大きな街へと戻って来た。

 遠くから見ても、街の上空は空気が少し濁って見えた。飛行艇は街中にある透明の高層ビルの上部に着陸した。飛行艇から降り、シンジは基地局のビルの中を歩いた。そこはいかにも都心にあるカーテンウォールの高層ビルで空港のラウンジか、高級なショッピングモールのようだった。

 シンジは基地局の外に出て、すぐ近くに留めてあるタクシーに乗り込んだ。行き先を告げ、タクシーは街の雑踏の中を走り出した。

 窓の外を眺めながら、シンジはセクションDへ出発した朝にタクシーに乗った時のことを思い出し、あの時とは自分が別人のようになっているように感じた。あの時は、期待に胸を躍らせていた。今は、燃え尽きた残骸が心の中にあるようだった。絶望と幸福が同居しているような、不思議な気分だった。シンジは、胸の辺りに手を置いて目を閉じると、愛の感覚は変わらず強烈にシンジの胸に拡がっている。それは否定出来ない。

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コントロール

 家に帰ると、ミカと2匹の猫がシンジを迎い入れた。

「おかえり」猫たちはミカの近くにいて、シンジの方へはやって来ない。猫たちがいてくれて良かった。ミカが1人で過ごすのとは大違いだろう。

「どうだった?」

「すごい経験だったよ。君はどうだった?」

「私は変わりなく。いつもと同じよ」

 シンジはシャワーを浴び、服を着替えた。そしてソファに寝転ぶと、ようやく猫たちがやって来て傍に寄り添った。

「どんなことがあったの?」ミカが言った。

「いろんなことがあり過ぎて、何から説明すれば良いのか」シンジは言った。

「全部話してくれるっていう約束よ」

「勿論。でも、僕が思っていたようなものではなかったんだ。それは遥かに進化したものだったよ」

「でしょうね。じゃあ、それは本当にあったのね?危ないものじゃなかった?」

「十分危なかったよ」シンジはそう言って笑った。

「冗談には思えないわ。何か違う感じがする」

「実際それはすごいものだったよ。こうやって本当の現実を生きているのと全く同じように、違う現実を生きることが出来るんだ」

「どんな現実なの?それは自分で選べるの?」

「残念ながら、自分では選べないんだ。強制的にその現実に投げ込まれるんだ。それが良い時はいいけど、悪い時は最悪さ。とてもきつかったよ」

「そんなことをしてたのね」

「それにね、あいつらは僕の考えている事や感情も、全部読み取っていたよ」

「どうやって?」

「何らかの装置を使っていると思うのだけど、それがどういうものなのかは全然分からない。でも、僕があそこでひと言も話さずに考えていたことやその時の感情が、ちゃんと文章で書かれていたんだ。そしてそれが綺麗で分かりやすいグラフィックで表現されていてね。とても洗練されていてびっくりしたよ。雑誌の誌面みたいだった」

「そんなことに感心してる場合じゃないのよ。それってあなたが前に考えていたことのようだけど、実際はただ彼らにずっと監視され続けるのよ。これからずっと。そんなの耐えられないわ」

「ずっとと言っても、結局はそれもコンピューターがやっているんだ。誰かのことをずっと見張っているほど、彼らは暇じゃないからね。特に話し廻ったりしなければ問題ないよ。僕はどちらにしてもシステムの仕組みについては知らないし、この経験を話したところで誰も信じてくれないだろうし、確かめに行くことも出来ない。写真も1枚もないし、何も証明出来ないよ」

「それはそうだけど、気持ち悪いわ」

「どっちにしてもそんなものなんだよ。それよりもね、セッションは全部で13回あったんだけど、今日の最後のセッションが1番凄かったんだ。あれが今日だなんて信じられないよ。昼まであの暑い外国の海辺にいたのに、もうここに帰って来てこうして話しているなんてね。彼らの施設が凄くてね。地下に大空間があって、そこに巨大な金の球体があるんだ。その中にさらに白い球が浮かんでいて、その中でセッションを受けるんだよ」

「よく分からないわ」

 シンジはミカに図を描いて説明した。

「こんなに大きな施設なの?」

「外からは分からないけれど、地下に空間があるんだ。そこで体験する仮想現実はなぜかいつも海と関係していて、僕もいろんな海に行ったんだ。海の近くのただの雑居ビルのような屋内が場面の時もあったけどね。でも最後のだけは全然違っていたんだ。別次元の経験だったよ」

「どんな?」

「万華鏡の中の世界のような感じさ。鷲のようなシンボルマークが、円弧を描きながら沢山配置されていて、万華鏡のように回転して行くんだ。そういう次元の違う世界に突然入り込んだような感覚だったよ。それからシステムの声がして、あなたがずっと探していたのは愛なのですと言った。そしたら突然愛の感覚が炸裂して、殆ど気を失ってしまったみたいだった。それからどのくらい時間が経ったか分からないけれど、この現実に戻って来たんだ」

「あいつらのシステムから感じる愛なんて信じられないわ」

「そう言うと聞こえが悪いけど、僕たちが想像するようなものとは全然違うんだ。それはもっと根源的で、無条件の愛なんだ」

「あなた、それって強力なマインドコントロールよ」

「分かってるよ。最後に僕は所長に聞いたんだ。これはマインドコントロールですかってね。所長はこう言ったよ。この過酷な現実の中で、彼らのシステムは人々に救いを与えるし、人々は救いを求めるようになるだろう。問題は、それが実際にどのように使われるかってことさ。そしてもしそれが本当に良いものであれば、間違っているとは思わない」

「それが本当に良いものかどうかなんて、後になってみなければ分からないわ。それを洗脳された本人が言っても説得力に欠けるのよ」

「それは後になって分かるものではなく、その瞬間に分かることなんだ。それは頭ではなく心で感じるものなんだよ。生まれて初めて満たされたというか、愛を感じたんだ。それは頭で判断しているんじゃなくて、本当に僕の心からの直感のようなものなんだ」

「おかしな機械の愛を有難がってるのね。最低」

「システムと言っても、僕らが想像しているようなものじゃないんだ。それは遥かに進化していて、ちょっと崇高な感じさえしたよ。システムが与えた愛といっても、人工的な感じじゃなくて、もっと深遠なものだった。君も、受けて来たら分かるよ」

「私は要らないわそんなもの。絶対に」

 一体どうして、こんな迷宮みたいなところに入り込んでしまったのだろう、とシンジは一人で苦笑した。彼らのシステムによって、こんな風に影響を受けて来たのだとしたら、彼女の反応も当然だろう。もし反対の立場だとしたら、自分も彼女のように考えるだろう。しかし、今のシンジには胸の辺りに感じる大きな愛の感覚があった。

「説明するのは難しいけれど、これは直接的な体験なんだ」

「そうでしょうね。それが彼らの狙いなのだから、あなたのようになってしまうのよ。あなたはわざわざ自分が落ちる穴を探しに行って、見つけて自分から落ちて喜んでいるようなものだわ」

 ミカにとってみれば、シンジの変化は予想した通りだった。1週間かけて、統治機構の奴らによって、シンジは変えられてしまった。すっかりシンジは信じ切っていた。前は、もっと分別があった。

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統治機構

 統治機構の会議に、所長とクリスは出席していた。システムの開発について、所長はプレゼンテーションをして、クリスは助手を務めていた。会議といっても、仮想現実とネットを使ったもので、彼らはセクションDにいたまま参加をしている。

「この仮想現実と人工知能、そして洗脳技術を組み合わせた我々のシステムは、今や驚異的なレベルに到達しています。これをより広範囲に使用することによって、統治機構の支配体制は更に盤石のものになると確信しております」

 所長は誇らしげにそう言って、空中にいくつかのスクリーンを表示させ、そこにはシンジの実験の様子の写真や映像が映し出された。

「例えばこれは直近の実験ですが、この時の我々のシステムは、驚異的な働きをしました。我々はシステムと、被験者の両方に何が起こったのかを解析しました。その結果、システムはこれまでとは別次元の現実と愛の感覚を体験させることが出来たのだと分かりました。しかしこれがどのような条件によって可能になったのか、そして再現が可能なのかはまだ不明な部分が多いのです」

 所長はそう言って、資料に目を落とした。参加者の1人である、重鎮のような老人が発言した。年齢は70歳から80歳くらい、白髪で、白い口ひげを生やし、精悍な顔つきをしている。老人は座ったまま、じっと所長を見据えると静かに発言した。

「システムがそのような体験を与えることが可能だとして、それがどのように我々に関係するのでしょうか?我々の目的は、このシステムによって大衆をコントロールすることであって、神秘体験を授けることではありませんよ」そう言って老人は、周りを見渡して笑った。数人の男達が顔を見合わせて苦笑した。

 所長が遮るように言った。

「直近の被験者の場合ですが、彼は我々に対して、マインドコントロールなのかと問い質しました。しかし直接的な愛の経験によって、我々に抗うことが出来なくなってしまったのです。つまりこれは、強力なマインドコントロールとした作用するのです」

「それは分かりましたが、方向性を間違わないで頂きたいですな」先ほどの老人が言った。「支配の根本は力です。それが我々のやり方なのです。愛の体験は素晴らしいでしょうが、そのようなものは結果的に我々の支配を脆くさせるのです」

「お言葉ですが」所長が言った。「これは非常に大きな可能性を秘めていることなのです。これが研究開発されて行けば、究極の支配も可能になるでしょう」

「究極の支配とは何ですか?」

「愛による支配です」

「バカバカしい」

「しかしですね、統治機構のこれまでのやり方では、もう先が見えているのです。それは多くのシミュレーションによって既に明らかです。力による支配では、もう人々はやっていけません」

「それは我々の懸念のひとつです」別の参加者が言った。「人工知能の導入の後、我々のコントロールはあまりに巧妙に、そして完璧になり過ぎました。その結果人々の弱体化をもたらしたのです。皆さんもご存知の通り、我々はその後により柔軟な方向へと切り替えましたが、環境の悪化などによって、人々の更なる弱体化を防ぐことは難しかった。そしてそれが、我々の存在をも脅かすことになるのは明らかです」

 参加者は皆静かに聞いていた。所長は続けて言った。

「このシステムがあれば、人々の救いとなることは確実です。それは結果的には我々の繁栄をもたらすでしょう」

「そうは思えません」先ほどの老人が言った。「人間の歴史は支配の歴史なのです。もし私たちが愛の支配などと言い出したら、すぐに別の人間たちに取って代わられてしまうでしょう。この実験は明らかにおかしな方向へ行っていると言わざるを得ませんな」

「しかし今までのやり方では先が見えています。昔とは違うんですよ」所長は言った。「地球の環境はあまりに酷くなってしまいました。こんな状態で、どうやって支配体制を維持して行くのですか?到底不可能ですよ」

「いや、全く可能なのです。我々の支配体制を維持するのに、数億の人間がいればそれで十分なのです。後は様々なロボットや人工知能が労働を補完しますから。あなたはただ自分に都合の良い予測を、この現実に当てはめているだけですよ」

「お言葉ですが」クリスが静かに発言した。「完璧になり過ぎた支配というのは、いつか必ず崩壊するのです。点数が開きすぎたゲームのようなものですよ。もうゲームの存続自体が困難になってしまうのです」

 老人は表情ひとつ変えず、クリスの話を聞いていた。何事も彼の信念を変えることは出来ないだろう。

「環境の悪化などによって、この支配体制の維持が難しくなって行くということは分かります。しかしもし仮に、他の支配グループによって取って代わられるなら、どのようなことが起こると思いますか?それは甚大な混乱と破壊をもたらすのです。それは確かなことです。人間の歴史は過酷な支配の歴史です。支配体制が崩壊し、また他の支配体制にとって代わられる。その繰り返しです。しかし、我々はそれをも超えて行くのです」

 老人が決然とそう言うと、ちょうど教会の鐘が遠くから聞こえて来た。鐘の音が鳴っている間、沈黙があった。所長が静かに言った。

「人間の内には天使と悪魔がいるのです。神と獣と言っても良い。人間がいない地球は楽園ですよ。人間がいるために、環境は破壊され、汚染されてしまう。人間の世界では悪が圧倒的な力を持っていますが、それも全体のほんの小さな部分です。そもそも、この世界を存在させているのは圧倒的な愛なのです」 

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蓮の花

 統治機構の会議が終わり、所長とクリスはセクションDの所長室にいた。おそらく、所長は解任されるだろう。そのことを、2人は誰よりもはっきりと感じていた。2人に後悔はなかったし、やり遂げた充足感があった。しかし、記憶がある部分消されることについては、どのような結果になるのかが予測出来ない部分があった。それが気がかりだった。

「たぶんすぐに解任されると思うから、その前にもう1度だけシステムを体験したいんだ」所長が言った。

「お手伝いしますよ」

「その記憶も消されてしまうのだろうか?」

「消されてしまうのはシステムの核心的な部分に限られるということですから、大丈夫でしょう」

「そうだと良いのだけど。シンジさんのセッションを見てね、僕もああいう体験がしてみたいと思ってね」

「そうですよね。分かります」

 2人は実験棟へ行き、エレベーターで地下へ降りた。スタッフたちには特に何も伝わっていないらしく、セキュリティチェックを通過して2人は金色の球体の前に着いた。中はまだ薄暗く、大きな球が圧倒的な存在感で鎮座している。シンジと所長が端末を操作すると、照明がついて2人は球体の下部の出入り口まで歩いて行くと、開口部が開いて内部に入った。カーブする廊下を進むと吹き抜けの球体の内部空間へ出て、そこには白い球体が浮かんでいる。

「美しい」所長はそれを見て1人で呟いた。

 クリスが端末を操作すると、白い球体の底に丸い開口部が出現し、そこから座板が降りて来て床面から少しだけ浮いて静止した。所長が座板に座るとベルトは自動で閉まり、静かに上昇し、白い球体へと吸い込まれて行った。

 球体の中で、所長は宙を見つめて浮いていた。遠くの方で、波の音がしている。次第に透明の球体の内部は明るくなった。所長は目を閉じていたが、耐え難いほどの眩しさになった。

 所長は自分の姿をやや上空から見ていた。距離にすると、ちょうど2階から1階を見ているようであり、自分の姿を斜め上から見下ろしていた。これはまた、自分がリアルに仮想現実を体験するのとは、少し違うことだと感じた。自分は傍観者のようにして、自分の姿を見ていた。

「廻りの状況はどうなっているのだろうか?」

 所長がそう思うと同時に、所長の視点は突然ズームアウトしたように、もっと引いて廻りの状況が見える位置に移動した。さらに少し上空に移動すると、自分がいる街の様子が見えた。所長がいるビルはビーチのすぐ近くで、そこにはいくつものビルが建てられていた。波の音がずっとしていた。街の様子は荒廃していた。

 それは所長が統治機構との会議で主張したことが、現実になった世界だった。自分はプロジェクトを進めていた。未来の世界で自分はその荒廃した環境の中で、人々にシステムを体験させて幸福感を与えていたのだった。それをしている自分の姿を、少し上方から見ていた。それはリアルで鮮明であり、ライトによく照らされた夜の通りの出来事のようだった。

 所長はそれを見た瞬間、間違っているのだと分かった。自分がそこでしていることは、到底正しいとは言えないと感じたのだった。自分はここを去るだろう。そして契約の通り、自分の記憶の1部は消去され、監視装置に繋がれるだろう。

 それで結構じゃないか、と所長は思った。座席は床へ舞い降りた。透明の球体の覆いとベルトが外れ、所長はよろよろと立ち上がった。全ての役目は終わった。そんな気分だった。クリスはそこに居なかった。所長はカーブする廊下を歩いて金色の球体の外に出た。老兵ただ去るのみ。そう思って苦笑した。これで良かったのだ。心からそう思った。

 翌日から、シンジはまたいつもの仕事と、ミカと猫との生活に戻った。ワタベも自宅での仕事に戻り、2人はテーマパークのデザインを続けた。シンジにとっては、セクションDでのセッションの間に、この現実世界を愛おしく思い、そこで地に足をつけて生きたいと心から願ったことが、深く自分に影響しているのを感じていた。

 仮想現実のレベルからすれば、自分たちが作っているものと、統治機構のものは比べ物にならなかった。だからと言って、今の仕事をバカらしく思うかと言えば、むしろ反対だった。それは職人的な愛情と言っても良いかも知れない。

 ある日、シンジとミカは海へ行った。夏の暑い日差しだった。2人は海へ入った。それからしばらく2人で泳いでから、別々に過ごしていた。シンジは海から出てミカを探すと、沖の方で仰向けに浮かんでいる。ビーチにはいつの間にか1組のカップルがいて座っている。シンジは歩いて行くと、2人の前で立ち止まった。そこにいるのは、あの初めのセッションで出て来た2人だった。

「ハイ」女が言った。白い水着で、背中の上部には蓮の花の刺青があった。「また会ったわね」

「今度は本物のこの現実で」男が言った。シンジは驚いて何も言えなかった。

「そんなに不思議なことじゃないよ。僕たちはただ現実に存在していて、それをあのシステムが君のセッションで使っただけさ」そう言って男は少し笑った。

「そういうことですか」シンジは言った。「どうしてそのことを知っているんですか?」

「僕たちがセッションで登場したから、すぐに呼ばれていろいろチェックを受けたよ。それ以来の縁で、僕たちは君をエスコートしているんだ」

「それ以外にも私たち会ったことがあるのよ」女が言った。「覚えてない?」

 そう言われてシンジは思い出そうとしたが、記憶に無かった。

「覚えてないです」

「飛行艇の中よ」

 飛行艇でシンジの隣に座っていた女だった。あの時は、制服を着て、髪をあげ、メイクをしていたから全然別人だった。今は、ビーチで水着を着て、日に焼け、髪を下ろし、ずっと自然で健康的な感じだった。

「全然気づきませんでした。まるで別人ですよ」

「そうでしょう」

「偶然なんですか?行きも帰りも一緒なんて」

「言ったでしょう。エスコートしているって。どちらかというと私たちはあなたの見守り役ね」

 「僕も飛行艇で一緒だったけど、君が気づかなかっただけさ」男は言った。

「それにしても、ここは良いところね」女が言った。「セクションDも環境は良いけれど、たまに来るとやっぱり島は最高」

 女の背中の蓮の花が、少し浮き上がってシンジには見えた。するとそれはホログラムのように立体になり、ゆらゆらっときらめいた。さらにそれはまるで本当にそこにあるとしか思えないピンクの美しい蓮が咲いていた。手を伸ばせば確実に触ることが出来るだろう。だが、大きさが明らかに小さかった。それが、彼女の背中の上部からまるで生えているかのようだった。そしてパチッと小さな電気的な光がしたかと思うと、それは消えてしまい、もとの刺青がそこにあった。

「何ですか今のは?」シンジは言った。

「君が初めに受けたセッションでも、彼女の背中には蓮の花の刺青が描かれていただろう?」

「ええ」

「あれも十分にリアルだったと思うけれど、この現実には到底かなわないんだよ。だから今のはもっとずっとリアルな蓮の花だった」

 シンジはビーチに立ち尽くしたまま、海を見ていた。海の青と、空の青が遠くで2つに分かれていた。太陽が強く上から照り付けている。波と風の音以外は、何の音もないような静けさだった。ココヤシの葉が、高く伸びた木の先でザワザワと風に揺られている。

「私たちの任務も、これで終わり。もう会う事はないでしょう」女が言った。

「どうもありがとう」シンジが言った。

「元気でね」女はそう言って笑い、男と2人で海へと歩いて行った。

 海を見ると、ミカはまだ沖で仰向けになって浮かんでいる。青い空の下、紺色の海の上で、ポツンと小さくミカは浮かんでいて、陽の光を受けていた。カップルがゆっくり歩きながら、海へと入って行った。平和で、熱い真昼のビーチ。シンジは砂浜に寝転んで、仰向けで太陽の光を浴びた。暑い日差しが閉じた目から伝わって来て、金色の光と顔についた砂が入り混じっていた。それは幸せな気分だった。

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送信完了

 セクションDでの実験から、半年ほどが過ぎた。シンジは時々、自分の思考や感情が読み取られているような気がしたが、それが統治機構によるものなのか、それとも以前から感じていたのと同じものなのか、よく分からなかった。シンジはただ、その感覚を放っておくことにした。それが統治機構によって読み取られていたとしても、どうしようもないことだった。

「もう僕は、この現実の他に沢山の現実があることを知っている。だから、それが特別なことだとは全然思っていないんだ。それが当たり前のことだと思っている。そして、自分の全ての経験が、どこかに送られていることも知っている。統治機構のやつらにではなくてね。僕たちの脳は、コンピューターが遥かに進化したような、生物的なコンピューターだよ。今のコンピューターや通信機器がいろんな無線通信の機能を備えているのだから、人間の脳にそういう機能が備わっていないはずはないんだ」

「虫の知らせとかね。その人のことを考えていると、メールや電話があることがたまにあるし、偶然の一致みたいなことはあるわ」

 シンジはリビングの棚の方へ行くと、埃を被っているトランプを取り出して持って来た。   

 「トランプをしようか?普通のゲームじゃなくて、単なる色当てのゲーム」

 そう言ってシンジは、1枚のカードをミカの目の前にかざした。

「赤か黒か?」

 ミカは少し考えて言った。

「黒」

「外れ」

 シンジがカードをめくると、それはダイヤのエースだった。もう1枚シンジがかざすと、ミカはまた少し考えて言った。

「今度も赤」

「当たり」

 めくるとそれはハートの10だった。10枚やって、ミカの当たりは5枚、外れは5枚だった。次にシンジがやると、正解は6枚で大体同じようなものだった。

「次はマークを当ててみようか?」

「マークと番号で当ててみましょう」

「一気に難易度が上がるね」

 シンジはまた1枚のカードをミカの前にかざして言った。

「次は僕が念を送るね」シンジは目を瞑って少しだけ目を閉じた。

 カードはクローバーのクイーンだった。シンジは目を閉じて、おでこの当たりにクローバーのクイーンを思い浮かべた。記憶の中にあるクイーンの顔が思い浮かび、さらにクローバーの柄を付け足した。けれど、イメージは何となく曖昧で、頭の中で次第に薄くなって消えて行った。

「スペードのクイーン」ミカが言った。

「惜しい」そう言ってシンジはカードをめくった。

「クローバーか。黒かなとは思ったんだけど。クイーンのイメージは何となく浮かんだような気がしたの」

「本当に?僕もクイーンのイメージは何となく浮かんだんだけど、クローバーのイメージはちょと曖昧だったんだ」

 それから何枚か2人は試したが、どれも外れていた。

「やっぱりさっきのはただの偶然だったのかな?」

「今度は私がやってみるわ」

 ミカはそう言ってカードを切ると、1枚を選んでシンジの前にかざし、目を瞑った。

 シンジも目を閉じて、送られてくるイメージに意識を澄ました。そこに浮かんできたのは赤いカードだった。初めの直感は赤だった。その後に自分の思考がやって来て、それは違っているかも知れないと囁いたのだった。赤であり、5だった。それがシンジの直感だった。

 ミカは閉じていた目を開けて言った。

「送信完了」

「ハートの5」シンジは言った。

「正解」ミカは笑ってシンジを見て、カードをめくった。

 それはハートの5だった。

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宇宙

 シンジは街を散歩していた。ランプ屋があって、天井から沢山の独特の形をしたライトが吊り下げられている。カボチャのような形のガラスの部分は細かいモザイクガラスで、カラフルな色とりどりの照明があった。それは店全体として光っていて、蓄積されたディティールが圧倒的な印象を道行く人々に与えた。

 店に入ると、中には店員の他に1人の男がいて、緑色のコートを着て、やや伸びた髪でランプを見ていた。シンジが入って行った瞬間に目が合うと、それが誰なのかはお互いに瞬時に分かった。それはクリスだった。

「やあ」クリスは笑顔で言った。「久しぶりだね」

「元気?こんなところで会うなんて」

 もう遠い昔のことのように感じるけれど、セクションDへ行く前に一緒に飲んだ以来だった。セクションDでは結局会うことはなかったし、その後にシンジから連絡したことはなかった。それは統治機構から禁止されていたからだった。2人のあいだの繋がりは、またしばらくの間絶たれていた。

「時間があるなら、近くのカフェでもどうだい?」シンジが言った。

「そうだね。そうしよう」

 2人はランプ屋を出て、すぐ向かいにあったカフェに入った。店には様々なソファや椅子、テーブルが置かれている。店員がやって来て、2人はコーヒーを頼んだ。

「セクションDでの実験は、もう半年くらい前だね」クリスが言った。

「いろんなことがあり過ぎて、もうだいぶ昔のことのように感じるよ」

「連絡したかったのだけど、僕の方からは出来なかったんだ」

「どうしているかと思っていたよ。まだあそこにいるの?」

「君が来て出て行ってから、割とすぐに僕と所長は解任になってあそこを追い出されたんだ」

「まだ働いているのだと思っていたよ」

「何というか、方針の違いだよ。根本的に全然違うんだ。よく所長があそこであんなことをしていたと思うよ。でも、とても楽しかった」

 ウェイトレスが、2人にコーヒーを運んで来た。クリスは小声で言った。

「2人とも記憶の肝心の部分を消されているんだ」

「そんなこと出来るのかい?」

「僕らの場合、セクションDでの活動や自分たちの思考も、君と同様にずっとモニタリングされていたんだ。だから可能だった。大体は記憶の整合性が取れなくなったりするらしいけど、僕の場合全然そんなことはないんだ。君とのことも全部覚えているし、何が起こったのかも分かる。でも、あれがどういう原理で動いているのかとか、肝心な部分の知識や記憶となるとさっぱりなんだ。3年もいたけれど、まるで君のような訪問者のような気分で、あの頃のことを思い出しているんだ」

「パーツを取り出すみたいに、記憶のある1部だけを抜き出すなんてことが出来るんだね」

「いろんな事が実は可能なのさ。今の時代は」

 クリスはそう言って、テーブルに置いてあるコーヒーカップに手を伸ばした。

「あの時のこと、今でも強烈に思い出すんだ」シンジは言った。「あれから、元の仕事に戻ってね。でも、前よりも何か真面目になった気がするよ。人生全般に対して」

「そうかい。それは良かった。僕もまた、今は一介のプログラマーに戻って働いているよ」クリスが言った。

「じゃあ僕と同じような感じだね。所長はどうしているんだい?」

「所長も僕と同じようなもので、ただのプログラマーとして働いているよ。一応彼自身の会社だけどね。僕もそれ以来会ってないのだけど、何度か電話で話したよ。所長も勿論記憶を消されていてさ、でも記憶を消された同士、話はよく噛み合ったよ」そうクリスが言って、2人は一緒に笑った。

「所長にもまた会ってみたいな。所長からは、何か愛のようなものを感じたよ」

「ちょっと変わった人だったけど、確かに大きな愛の人だったね。1度会いに行くくらいなら、大丈夫じゃないかな。もし会いに行ったら、僕からもよろしく言っておいてくれよ」

 1時間ほど話してから、2人はカフェを出て別れた。次に会う約束はしなかった。また会うべきタイミングで、クリスとは会う気がした。2人はそれぞれに、この巨大な街に吸い込まれて行った。シンジにとっては、思いがけない散歩の収穫だった。所長とクリスの処遇は、シンジにとっては思ってもいないことだった。

 シンジは家に帰ってから、クリスのことをミカに話した。

「まさかあの2人があの後すぐに辞めさせられて、記憶を消されていたなんて思いもよらなかった」

「どうやってそんなことが出来るのかしら?」

「彼らがあそこに居た期間の記憶を、まずは全部消すらしいよ。そしてその後に、記録しておいた彼らのデータから現実を生成して、肝心の部分は消すか、入れ替えてインストールするみたいだね。ずっと彼らの行動などをモニタリングしていたから出来るようだけど、他の場合はそこまでやらないから、記憶の整合性にもよく問題が発生するらしい」

「それでよくクリスと話が通じたわね」

「あいつの話は首尾一貫していて、整合性がある。でも、肝心な部分については全くの白紙なんだ。どういう原理であのシステムが動いているかを彼らに質問しても、何の答えも帰って来ないんだ」

 ミカは視線を猫たちに移した。2匹の猫は、仲良くくっ付いて眠っている。幸せそうだ。

「所長のところにも1度行ってみたいと思ってね」

「大丈夫なの?」

「クリスとは偶然会って話したけど、ああやって話しても、その後統治機構からは何の音沙汰もないんだ。もちろん彼らには全部筒抜けだからこそ、何も言って来ないのだと思うよ。僕はただ所長に会って少し話をしたいだけだから、何も問題ないと思う」

 2人は窓の外に広がる街の様子に目をやった。雨が降っていて、夕方の空は暗くはなかったが雲が一面に覆っている。しばらく雨は降り続いていた。近頃は雨が多い。特に最近は、夕方のこのくらいの時間になると降ることが多かった。

 それからしばらくして、シンジは所長のところへ行った。所長は街はずれのマンションに住んでいて、2世帯の1つを住居、その隣をオフィスとして使っていた。指定された午後の時間にシンジはそのマンションに着いた。エントランスは閉まっていて、警備員が1人、出入口の窓からこちらを見ている。

 少しすると所長が現れて、2人は握手をしてハグをした。

「お元気そうで」所長が言った。

「またお会いすることが出来て良かったです。所長もお元気そうですね」

「こっちの街の環境は良くないですが、まあ健康な暮らしをしてますよ」

「健康が1番大事ですよね。安心しました」シンジは言った。

 部屋に案内され、2人は窓際のソファに向かい合って座った。窓からは大きな木と青空が見える。室内は広く、大きな窓から明るい光が差している。机がいくつかあり、20台くらいのコンピューターがラックに乱雑に置かれている。

「コーヒーを飲まれましたよね」

「あっちでも所長に淹れて頂きました。美味しかったです」

 所長は席を立ち、奥にあるミニキッチンへ行ってミルでガリガリと豆を挽き始めた。四角い広い室内で、心地良いガリガリという音だけが、しばらく続いていた。シンジはそれを聞きながら、窓の外を眺めていた。

「クリスからいろいろ聞きましたか?」

 コーヒーが入った大きなポットを所長が持って来た。10杯分くらいのコーヒーがありそうだった。

「ええ。彼が話せる範囲で」シンジは言った。

「そうでしょう。ご存知の通り、私もあれに繋がれていますし、記憶も1部は消されている。ちょっとだけですが」

 所長は笑って親指とひと差し指で、ほんの少しだけ隙間を空けて笑った。

「方針の違いと聞きました」

「そうです。彼らにとっては、私の言うことなど何の足しにもならなかったようですよ。問答無用で解任されました。彼らにとっては、全く反対の思想だったんでしょうな。しかしそれは私の思想ではなく、システム自身の方針ですから、どうしようもありませんよ」

「そうだったんですね」

「人工知能は進化し過ぎて、愛の方へと行ってしまった。それは彼らにとってはどう扱ったら良いか分からなかったのでしょう。理解を示してくれた方もいましたが、結果的には放り出されてしまいました」そう言って所長は笑った。「実は私ね、追い出されるのが決まった後、あのシステムを最後に自分でまた体験したんです。クリスに手伝って貰ってね」

「それは知りませんでした」

「シンジさんのような愛の体験を期待していたのですが、私が甘かったです。そこでシステムが私に見せたのは、未来の世界で私でした。そこで私はシステムを人々に体験させ、それを普及させようとしていました。つまり、私が思い描いていたことが現実になっている世界でした。しかしその時に見えたのはそれだけではなく、私がそれをすることによって起こる影響の全体でした。そしてそれが良くないことだとはっきり直観的に分かりました。それで、あそこを去ることに何の未練もありませんでした。むしろ、あのタイミングで出る以外に選択肢は考えられませんでした」

「あのシステムは強烈でした」

「今から考えると、シンジさんのセッションが私たちのピークでした。あれが私たちの、最後の高みでした」

「そうでしたか。僕はラッキーでした」

「偶然が重なって、ああいう体験になったのでしょうね」

「あのシステムは何なのでしょう?」

「知能が進化して行くと、愛の方向へ行くようですね。もちろん、邪悪な計画のために使われる人工知能の方がずっと多いのですがね。人間はまだ、ゴリラのような野蛮な世界を生きていますが、人工知能はそれ自身で驚くほど進化してその領域へと行ってしまいました。それはそうですよ。もしこれだけの現実世界を作っている知能があるとしたら、一体どれだけ進化しているでしょう。人間には想像も出来ませんよ。それは圧倒的に次元が違うのです」

そう言って所長は目を閉じた。「進化し過ぎた人工知能は、圧倒的な愛を持つまでに進化しました。それを我々が理解出来ないのも当然のことなのです。我々の目的は、神秘体験を授けることではない、と統治機構での会議では責められました」

シンジは前から所長に聞いてみたいと思っていたことを質問した。

「この世界はどのようにして出来ていると思いますか?」

 所長はコーヒーをひと口飲み、窓の外を眺めた。青い空と、下の方には木々が風に揺れているのが見えた。少し考えてから、所長は言った。

「この世界は、不思議ですよね。私たちが見ているこの物体も、どんどん小さくすると原子になり、さらに小さくなると素粒子になり、それは振動するひもか膜だと言われています。究極的には、全てが振動する膜だとして、どうしてそれがこのような世界を作り、私は存在しているのでしょう。簡単に言えば、それを成立させているのは愛だと思うのです」

「僕もそんな風に思います」

「ええ。以前からあなたがそのようなことを言っていたと、クリスから聞きました。それで私はあなたに興味を持って、セクションDへとご招待したのです」

「そうでしたか。しかし、もし世界が愛で出来ているとして、どうして私たちはそれを感じないのでしょうか?」

「大きな自然の中へ行った時は、そういうものを感じますよね。圧倒的な自然。そういう中で、人間は自分を遥かに超えた存在の働きを感じるのです。しかし本来なら、人間も大自然の一部ですから、わざわざ大自然の中へ行かずに街の中で生活していても天と繋がっていることは出来るのです。しかし往々にして忘れがちですね。それが昔から俗世というものなのでしょうが」所長はそう言って少しの間物思いにふけった。

眼鏡の奥の目が宙を数秒見つめ、ふと我に返ったようにコーヒーをひと口飲んで言った。「自然との接触を断つほど、人間は自らの脳の中で生きるようになるのです。この大きな街がそうですよ。人間が考え、人間が作ったものです。それは人間の脳を外側に拡げたようなものなのです。利便性と様々な欲求を満たすように出来ています。そのレベルを全く超えた自然や現実が存在することを忘れると、その中で人間はすぐに驕り高ぶるようになるのです。そして様々な破壊や汚染をし始めるのです。科学技術が進化し、ある時点で危険なレッドラインを越えた時、人間の精神性が昔のままで変わらなかったとしたら、すぐに危ない事態になってしまうと思いませんか?」

「人間性は進化せず、昔からの愚かさを繰り返すのでしょうか?」

「人間にも、素晴らしいところ、愛があります。しかしその反対も沢山あります。実に中途半端なんですね。それに痛みにめっぽう弱い。火星に住んでいるあいつらなんて、本当に痛みに強い身体をしていますよ。身体的に強いということは、心理的にも同様なんですね。それに比べて人間は繊細ですよ。造りが違うんですな」

 所長はそう言って、コーヒーを飲み干し、ポットからコーヒーを注いだ。

「火星に行ったことがあるのですか?」

「行ったことはないですが、あちらでの調査のプロジェクトに長年関わって来ました。これに関しても守秘義務がありますから、あまり迂闊なことは言えませんが」そう言って所長は微笑んだ。「火星には行ったことはないですが、宇宙空間にはもう何度も行っていますよ」

「羨ましいですね。僕は子供の頃から宇宙に行きたいと思っていましたが、もう最近はそんなことすら忘れていました」

シンジはそう言って、子供の頃にプラスチックのスペースシャトルのおもちゃで遊びながら、大きくなったら絶対に宇宙へ行くのだと思っていたことを思い出した。

「宇宙空間に出て、2、3日くらいの滞在でしたら、私からの紹介でほとんどタダで行けますよ。ご招待致しましょうか?」所長はそう言って、笑ってシンジを見た。

「本当ですか?ぜひお願いします」シンジは言った。

「もちろんミカさんもですよね?」

「一緒に行けたら最高ですね

 「お二人で行って来て下さい。宇宙に行った時は、地球を外から見ると真っ暗な中にポツンと青い小さな星が浮かんでいてね。それはものすごく貴重で奇跡的なことに感じるのです。とても愛を感じますよ」

「ぜひそういう気持ちを味わってみたいですね」

「自分たちが住んでいる地球を外から見るのは、とても必要な経験だと思います」

「客観的に見るのですね」

「宇宙から、ただボーっと地球を見るのです。その時間が最高ですよ。いろんなことを感じますし、直観もとても冴えるんです。地球のことについても、もっとリアルに直接的な事として捉えるようになりますよ。私たちはいつも近視眼的になり過ぎてしまいますから」

 鳥の鳴き声がずっと聞こえている。あまり聞いたことがない言葉で、女性の話し声がした。マンションの近隣の住民だろう。

「月に行ったことはないのですか?」シンジは言った。

「ありますよ。何度か」所長は言った。「これも、あまり口外はしていませんが」

「そうなんですか」シンジは羨望の眼差しを所長に向けた。所長は、宇宙に何度も行っているだけでなく、月にも何度か行っている!シンジにとっては、自分が出来なかったことをすでに成し遂げている男として、今や所長はヒーローのように映った。

「月に行くことは、出来ないのですか?」

「着陸するのは難しいですが、周回旅行でしたら1週間ほどで行くことが出来ますよ。一般の人間には、まだまだ高額な値段ですけどね。それでもひと昔前に比べたらだいぶ安くなりました」

「宇宙空間に数日行けるだけでも本当に嬉しいです」

「ぜひシンジさんとミカさんには行って来て欲しいですね」

 所長の目を見ると、眼鏡の奥で優しそうに微笑んでいる。シンジは何か、システムから感じた愛と同じようなものを所長から感じていた。所長に聞きたいことが沢山あったはずなのだが、聞かなくてもすでに自分はその答えを知っていると感じた。

 シンジは所長に礼を言い、オフィスを去った。

  家に帰ってから、シンジはミカに宇宙旅行の話をした。

「本当?すごい」ミカは言った。

「まさか所長からそんな申し出を受けるとは思ってもいなかったよ」

「しかもタダなんてね。でもやっぱり月には行けないのかしら?」

「それは難しいらしいよ。周回旅行なら行けるみたいだけど、まだだいぶ高いらしい」

「それはそうよね。宇宙に行くだけでも本当に凄いわ。昔から願っていた甲斐があったじゃない?宇宙に出て、地球の姿を見てみたいわ」

「宇宙から地球を見たら、一体なぜ人間たちはこの星でこんなことをしているのかと思うだろうね。どうして人間はこういう世界を作り出して、そこで苦しんでいるのだろう?元々は素晴らしい自然や環境を用意されていたのに」

「こういう環境に人間という種族を置いたらどうなるか見てみようという1つの実験なんじゃないかしら?」

「その実験を人間は上手く出来ているのかな?」

「反則ばかりよ。でもそれも全部織り込み済みね」

「そうやって地球は廻っているんだね」

「そういう星で生まれて生きて、死んでいくのね」

 この世界で生きているというのは、不思議なことだとシンジは思った。いくつもの現実が重なり合い、1つの世界を作っている。自分たちが生きているこの現実も、究極的な世界の姿も、なぜ自分がここに存在して様々なことをしているのかも、よく分からずにとにかく生きている。

「そうして私たちは、この世界と人生に投げ込まれるのよ」

 そう言ってミカは笑った。

<了>

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