1974年2月、サンディエゴでの対話は続く。前回「見ること」「聴くこと」という問いを辿ったクリシュナムルティとアンダーソン博士は、次に人間の内側にある葛藤の構造へと入っていく。責任とは何か。秩序はどこから来るのか。そして恐れとはどのように生まれるのか。
これは比喩ではない。世界の腐敗、暴力、無秩序は外側にある何か別のものではなく、私自身の意識の内容と同じものだとクリシュナムルティは言う。貪欲さ、嫉妬、恐れ、野心――それらは個人の問題であると同時に、世界そのものの問題だ。
私たちは通常、責任を特定の対象に対するものとして捉える。家族に対する責任、社会に対する責任。しかしクリシュナムルティが指す責任はそうではない。限定された対象への責任ではなく、全体への責任だ。自分の意識が世界の意識と連続していることを本当に理解するとき、初めて責任は実質を持つ。この理解がなければ、責任はただの言葉に過ぎない。
そしてこの理解は思考を通じて来るのではない。思考は常に断片的であり、部分から全体を組み立てようとする。しかし「私が世界である」という洞察は、分析の結果ではなく、直接の知覚として訪れる。
私たちは他者と関係を持っていると思っている。しかし実際に起きていることを注意深く見るならば、それは関係ではなく、イメージとイメージの間の接触だということがわかる。私が持っている相手のイメージと、相手が持っている私のイメージ。その二つが触れ合っているに過ぎない。
イメージは過去から来る。昨日の傷つき、去年の期待、長い時間をかけて積み重なった失望と喜び。それらが固定した像を作り、その像をとおして相手に反応する。これは関係ではなく、記憶との対話だ。
では本当の関係とは何か。クリシュナムルティはそれを直接定義しない。ただイメージなしに相手を見ることができるかを問う。それは過去を消去することではない。過去のイメージが動き始める瞬間を見ること。その見ることが、何かを変える。
配偶者、友人、親、子供——私たちが「よく知っている」と思う人ほど、実際にはイメージが厚く重なっている。「あの人はこういう人だ」という固定した理解が、今この瞬間の相手を見えなくする。クリシュナムルティの問いは根本的だ。あなたは今、その人を見ているのか、それとも記憶を見ているのか。
秩序について、私たちは通常こう考える。何らかの理想、設計図、ルールがあり、それに従うことが秩序だと。しかしクリシュナムルティはこの前提を根本から問い直す。
思考は本質的に断片的だ。思考は全体を把握できない。なぜなら思考そのものが、過去の記憶や経験から生まれた断片の集合だからだ。その断片的な思考が秩序を作ろうとするとき、必ず別の断片との葛藤が生まれる。
では秩序はどこから来るのか。自分の内側にある無秩序を正直に見ること。葛藤を見ること。矛盾を見ること。断片化を見ること。その見ることの中に、秩序への動きが自然に生まれる。これは方法論ではない。見ることそのものが変容だ。
私たちはしばしば「まず自分を整えてから」と思う。しかしその「整える」行為が、すでに思考による断片的な介入だ。整えようとする「私」も、また思考の産物だからだ。
昨日の不快な出来事を思い返して不安になる。明日どうなるかを想像して怖くなる。この「昨日」と「明日」はどちらも思考の産物だ。今この瞬間、歯が痛いという身体的な恐れはある。しかし心理的な恐れは、思考が時間を作り出すことによって生まれる。
ここでクリシュナムルティは一つの核心を指し示す。私たちは恐れを感じるとき、「恐れを観察している私」と「観察されている恐れ」が別々に存在すると思っている。その「私」が恐れを分析し、判断し、克服しようとする。
「観察者は観察されるものだ。」
恐れを見ている私が、すでに恐れの一部だ。この事実を本当に見るとき、恐れと戦う必要がなくなる。戦うべき分離した敵がいなくなるからだ。ただ恐れを見ること。その完全な見ることの中に、恐れは自らの本質を明かす。
これは恐れを無視することでも、抑圧することでも、受け入れることでもない。ただ見ること。見ることに翻訳がなく、評価がなく、逃げがないとき、何かが動く。
責任を限定すること。イメージをとおして他者と関わること。外側から秩序を課そうとすること。思考が作り出す恐れと戦うこと。これらはすべて同じ根から来ている。
自分自身と世界を、断片として見ること。断片化された思考が、断片化された問題を作り出し、断片化された解決策を探す。その全体の構造を見ることなしに、葛藤は形を変えながら続く。
クリシュナムルティは統合された答えを提供しない。答えを持つ者が権威になり、権威に従う者が依存を生む。彼はただ問う。あなたは今、本当に見ているのかと。見ることが始まるとき、問いは生きたものになる。